2024年2月18日日曜日

  それでは「雑談集」の続き。

 「さみだれにかくれぬ物や勢田のはし  翁

 此はしの名大かたの名所にかよひて矢矧のはしとも申すべきにや、長橋の天にかかる勢多一橋にかぎるべからずと難ぜしよし、京大津より聞え侍るに、去来が、

 湖の水まさりけり五月雨

と云へ、まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ。八景を亡せし折から此一橋を見付けたる時と云ひ、所といひ一句に得たる景物のうごかざる場をいかで及びぬべきや。文章のみものにあつからずと云へる瞽者のたぐひなるべし。」(雑談集)

 芭蕉の「さみだれに」の句は元禄二年刊荷兮編の『阿羅野』に収録されている。貞享五年五月末からの大津滞在中の句であろう。同じ頃、

 目に残る吉野を瀬田の蛍哉     芭蕉

の句を詠んでいる。貞享五年の春には『笈の小文』の旅で吉野を訪れていた。

 湖の水まさりけり五月雨      去来

の句も同じく『阿羅野』に収録されている。共に巻之七の「名所」の所に二句並べられている。
 勢田の橋はウィキペディアの「瀬田の唐橋」の項に、

 「歴史上、さまざまに表記・呼称されてきた。瀬田橋や勢多橋、勢多大橋のほか、勢多唐橋とも記される。また、瀬田の長橋とも称された。」

とあるように、充てる漢字もいろいろで、音があっていれば昔の人はそれほど字面にはこだわらなかった。和歌では「せたのながはし」が多く用いられる。

 さみだれにかくれぬ物や勢田のはし 芭蕉

 この句に対して京や大津の人から勢田の橋は他の橋でもいいじゃないかという、いわゆる「ふる、ふらぬ」の論が起きたという。名古屋の矢矧橋でもいいではないか、というものだ。
 単に五月雨の雨が強くてあたりの景色がよく見えない、というだけの句ならば、それも言えるかもしれない。ただ、琵琶湖の五月雨に朦朧とけぶる景色の風情は瀟湘八景の美にも通じる。
 勢田の橋とあれば、琵琶湖の景色が浮かんでくるが、矢矧橋は東海道岡崎宿の西の有名な長い橋ではあるが、比較的新しい橋なのか、和歌には矢作川は詠まれているが矢矧橋はないし、特に風光明媚で知られてたわけでもない。
 『阿羅野』ではこの後に去来の句が並べられているように、勢田の橋がなくても五月雨の琵琶湖はそれだけで一句のテーマとなるようなものだった。
 其角も「まことに湖鏡一面にくもりて水天ニ接スとみえぬ」という。其角の父は近江膳所藩の藩医で其角自身もこの辺りの景色の美しさは熟知していた。それだけに、五月雨の琵琶湖の風情を熟知していた京や大津の人からこんな横やりが入るのは解せぬことだ。
 もっとも地元の人にしてみれば当たり前すぎて、却って余所物の方がその美しさに感動するのかもしれない。
 「水天ニ接ス」は蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天。」のことで、当時は誰もが知るような漢詩の一節だった。

 「壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。」
 (壬戌の年の秋、七月の十六夜、蘇子は客と船を浮かべ、赤壁のもとに遊ぶ。涼しい風が静かに吹くだけで波もない。酒を取り出して客に振る舞い、明月の詩を軽く節をつけて読み上げ、詩経關雎の詩を歌う。やがて東の山の上に月が出て射手座山羊座の辺りをさまよう。白い靄が長江の上に横たわり、水面の光は天へと続く。小船は一本の芦のように漂い、どこまでも広がる荒涼たる景色の中を行く。)
 芭蕉もこのイメージで後の元禄六年に、

 ほととぎす声横たふや水の上    芭蕉

の句を詠む。
 「文章のみものにあつからずと云へる瞽者」というのは、実際に旅をしたりせずに、頭の中だけで歌枕のことや何かを考えている、ということか。まあ、当時は動画も写真もないから、実際琵琶湖を見たことないと、どういう景色か想像もつかなかったのかもしれない。
 瞽者は「コシャ」とルビがある。目の不自由な人のこと。

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