戸川公園の河津桜も満開で、梅もまだまだ満開の見頃だった。
水無川沿いの道はおかめ桜が咲き始めていた。
丹沢の山は雲がかかってたが、雪が残っていた。
それでは「雑談集」の続き。
「正木堂鳥跡はむかし遊女あまた持ちて栄えけり。かかるいとなみあるべきことにもおもはずとて、所を去りけれども、なましひに高尊の席をたたれ、遊人もしひて交りをゆるさずなりにければ、後するがの国にしれる人とひ行きけれども、たのもしからずものしければ、有りつらへる世中をとかくもてあつかへる心にやなりけん。凩の森なるかたはらの池に身を投げ侍るそのほとりに茶酌にたんざくを付けて、
とめこかし茶酌の雫雪の跡 鳥跡
今は十とせにも成りぬべし。心をとけたる一句のさまいやしき人果には生まれながら、たふとき道に身をまかせけるも讃仏乗の因なるべし。」(雑談集)
正木堂鳥跡は遊女屋の主人、いわゆる「轡(くつわ)」だったのだろう。『虚栗』のら其角・千之両吟歌仙「偽レル」の巻十九句目に、
松ある隣リ羽かひに行
百千鳥轡が仕着せ綺羅やかに 其角
の句がある。(轡には下級遊女の轡女郎の意味もあるが、ここでは遊女屋の主人が遊女を綺麗に着飾らせるという意味。)
この轡はネット上の今西一さんの『芸娼妓「解放令」に関する一考察』によると、穢多に準ずるものとして差別され、遊女町以外で家を構えることが禁止されてたという。
正木堂鳥跡はこうした轡であるとともに俳諧風流の徒でもあった。延宝九年刊言水編『東日記』に、
更にけふ田毎の月よ段目鑑 鳥跡
の句がある。
ある時、「かかるいとなみあるべきことにもおもはず」と自らの商売を恥じて、足を洗おうとする。「所を去りけれども」というのは遊郭の外に出るということか。遊郭の外に住むことを禁じられた者が出たらどうなるかという話だ。
「高尊の席」はよくわからない。出家してお寺に入るとかそういうことか。遊郭で遊んでいた人たちも現役時代には親しくしていた人たちだったのだろうけど、相手にしてくれなかった。
駿河の知人を頼っても断られ、行くところがなくなって、ついに「池に身を投げ侍る」となった。
茶杓に短冊を付け、そこに、
とめこかし茶酌の雫雪の跡 鳥跡
の辞世を記した。
なぜ茶杓なのか、一つの推測だが、竹細工など賤民の仕事だったことから、住む所もないまま竹を削って茶杓を作って売って、何とか食いつないでたということか。
冬になると野宿は辛い。雪が降れば凍死する危険が大きい。そこでもはやこれまでと観念したのだろう。雪にあっては我が命も茶杓で掬える僅かな雫のようなもの。それが最後の言葉だった。
「今は十とせにも成りぬべし」と元禄四年(一六九一年)から十年前の出来事だったようだ。一六八一年は延宝九年のことで、『東日記』の出た年でもある。多分其角の門人というわけでもなく、噂に聞く程度の人だったため、自ら助けてあげるということもなかったのだろう。
罪深き職業から足を洗おうとしても決して報われることはないこうした厳しい身分社会の不条理に、せめて死後の仏の加護祈るだけだった。「讃仏乗の因」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「讚仏乗」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 仏語。一切の衆生をことごとく成仏させる一乗真実の教法を賛嘆すること。仏乗を賛嘆すること。
※とはずがたり(14C前)三「ありし文どもを返して、ほけきゃうをかきゐたるも、さんふつせうのえんとはおほせられざりしことの」 〔白居易‐香山寺白氏洛中集記〕」
とある。一切の衆生が成仏できるのなら、鳥跡も成仏できたことであろう。
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