2024年2月11日日曜日

 随分また間が空いてしまったが、今年もいろいろ花を見に行った。寄(やどりき)の蝋梅、

 蝋梅や閉じた月日の溶け始め
 蝋梅や琥珀は虫の眠れるを

の二句は秦野の句会に出した。
 土肥の土肥桜、下田の水仙、熱海の熱海桜も見に行った。熱海桜を見に行った時は、海に島が若干浮き上がって見えるという、浮島という蜃気楼の一種を見た。

 島の浮く熱海穏やか早桜

 曽我梅林の梅も見に行った。

 富士の白雲の白きや梅の白

 さて、この俳話も長く休みがちだったけど、そろそろ何か読んでみようかと思い、其角の元禄四年刊の『雑談集』の俳論を見て行こうかと思う。

 「伏見にて一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより芭蕉翁の名句いづれにてや侍ると尋ね出でられけり。折ふしの機嫌にては大津尚白亭にて、

 辛崎の松は花より朧にて

と申されけるこそ一句の首尾、言外の意味あふみの人もいまだ見のこしたる成るべし。」(雑談集)

 其角は貞享五年に西鶴の住吉大社での矢数俳諧興行のために上方へ行っているが、その頃のことだろうか。其角も父の東順が近江膳所藩の医者だったことから、近江国とは縁が深い。
 そのことからも、伏見に来た時、芭蕉の名句はと問われると、この句が浮かんできたのだろう。伏見は近江から逢坂山を越え、京へ向かわずに山科から南に行ったところにあり、つい先だって近江から来たばかりだったかもしれない。
 「松は花より朧にて」と、後ろに何か省略した感じが、いかにも「言外の意味」を残し、近江に住んでる人すら思いつかないことだ、と近江に縁の深い人だからこそ言える言葉だ。
 ただ、この句の「にて」留の是非についてはいろいろ議論のある所で、其角としてはその議論を誘う意図があったのかもしれない。

 「其けしきここにもきらきらとうつろひ侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおぼわれし人さし出て、其句誠に俳諧の骨髄得たれども慥なる切字なし。すべて名人の格的にはさやうの姿をも発句とゆるし申すにや、と不審しける。」(雑談集)

 「中古の頑作に」は「中古のかたくな作(さく)に」だろうか。「頑作」という単語が検索にかからない。
 中古は蕉風確立前の談林の作風に頑なにこだわっているという意味だろうか。談林もまた貞門の型を破ってきたが、そこでも雅語の使い方に證歌を求めたり、堅苦しい部分はあった。貞享の時代にあっては保守派に回ってたということだろう。伏見の任口は既に世を去っていたが、談林系の門人はまだ伏見にいくらもいたのだろう。
 発句というのは切れ字を使うもので、というのは当時の一般的な認識で、切れ字なくても切れている大廻しや三体発句は連歌の時代から知られていたが、「にて」留の発句は前例がないし、それ以降もほとんど真似されていない。
 荷兮編『冬の日』には、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

という発句があるが、この句には「や」という切れ字が入っていて、句は「霜月に鸛(こう)の彳々ならびゐてや」の倒置になるから、「て」留にそれほどの違和感はない。
 ただ、芭蕉が「松は花より朧にて」の句を詠んだのはその次の年の春であることから、この句の影響を受けた可能性は十分ある。
 いずれにせよ芭蕉のこの句は発句の体ではないというのは、当時の一般的な認識だったし、後に蕉門を離れた荷兮も元禄十年刊『橋守』巻三で、自分の「霜月」の句を「留りよろしからざる体」とし、芭蕉の句は「俳諧にあらざる体」としている。

 「答へに、哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へるによりて志らるべきか、おぼろ哉と申す句なるべきを句に句なしとて、かくは云ひ下し申されたるなるべし。朧にてと居ゑられて、哉よりも猶ほ徹したるひびきの侍る。是れ句中の句他に的当なかるべしと。」

 其角の答は、哉の句に「にて」留の第三を嫌うのは、哉と「にて」が似通ってるからだということから、この句は、

 辛崎の松は花より朧哉

としても良いような句で、哉より「にて」の方が「徹したるひびき」というのは、哉が治定の意味で、花より朧だろうかと疑いつつ、主観的に朧だと断定するのに対し、「にて」だと、「にては如何に」と強く疑問を問い掛けつつ断定することになる、そういうことではないかと思う。
 この語感の違いはもっともだと思し、哉と「にて」の働きの似ているのも納得できる。ただ、「哉とまりの発句に、にてとまりの第三を嫌へる」というのは特に式目にあるわけではない。『寛正七年心敬等何人百韻』では、

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬
   春にまかする風の長閑さ    行助
 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

というように、「哉」で切れる発句に「にて」で終る第三を付けている。もっとも、江戸時代の慣習としては、そういう嫌いもあったのかもしれない。
 この其角の議論は後に『去来抄』でも取り上げられることになる。

 「伏見の作者、にて留どめの難有あり。其角曰、にては哉にかよふ。この故に哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫しくなれバ、にてとハ侍る也。呂丸曰、にて留の事は已に其角が解有。又此ハ第三の句也。いかでほ句とはなし給ふや。去来曰、是ハ即興感偶にて、ほ句たる事うたがひなし。第三ハ句案に渡る。もし句案に渡らバ第二等にくだらん。先師重て曰、角・来が辨皆理屈なり。我ハただ花より松の朧にて、面白かりしのみト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,10~11)

 「伏見の作者」とまで特定されているから、これは「雑談集」を読んだ去来・呂丸と芭蕉の問答であろう。

 「此論を再び翁に申し述べ侍れば一句の問答に於ては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば『さざ波やまのの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉』只根前なるはと申されけり。」(雑談集)

 「雑談集」での芭蕉の其角に対する答は、其角の言うのはもっともだが、そんなことを考えて「にて」にしたのではない。

 さざ波やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(新続古今集)
 近江路やまのの浜辺に駒とめて
     ひらの高根のはなをみる哉
             源頼政(夫木抄・歌枕名寄)

の歌を踏まえて、比良の高嶺の花の朧よりも辛崎の松の方がより手の届かないもののように見える、というこれは完全にネタを明かしてると言ってもいいかもしれない。
 芭蕉は春の霞のかかる松の朧に即興感隅したというより、比良の高嶺の花より朧なのが面白いという比較に重点を置いていて、こっちの方が朧じゃない?という問いかけにしたかったのではなかったかと思われる。
 いずれにせよ、芭蕉としては発句の慣習に囚われず、俳諧の自由というところにあえて「にて」留をしてみたのではなかったかと思う。そして、その試みはまだ談林の自由の残る貞享二年だからできたことで、後の俳諧の流れの中で、これ一句で終わってしまった試みだったのであろう。

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