今日は一日雨。雲に隠れた山に雨に映える河津桜は紅一点を添えていて、梅の幹が黒ずんで見える中に梅の花もまた鮮やかに見える。
あと、源氏物語の乙女巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「雑談集」の続き。
「去年にかはりて山のにぎはひ又更なり。
小坊主や松にかくれて山ざくら 角
香煎ふる素湯に桜の一重かな 普船
くもる日は一日花に照れけり 挙白
さそはれて花に嬉しく親の供 浮萍
物見よりさくら投げこめ遊山幕 亀翁
花の雨小袖惜うてかへるかや 水花」(雑談集)
「去年にかはりて」とあるのは、前の段の「其弥生」の句が元禄三年で、これはその翌年の元禄四年の花見と見て良いのだろう。『雑談集』はこの年にまとめられ、翌年刊行された。
小坊主の句は、この年元禄四年の七月に刊行された去来・凡兆編『猿蓑』にも、
東叡山にあそぶ
小坊主や松にかくれて山ざくら 其角
とある。
この句は「山桜(に)小坊主も松に隠れてや」の倒置であろう。小坊主が何で隠れているのか、やや言いおおせぬ感じが其角らしい。ただ、江戸時代に寛永寺だ花見をした人なら、その情景がすぐに浮かび、「あるある」と思ったのだろう。
推測だが、いつもなら境内を掃除したり、せわしく働いてる小坊主だが、この日は花見の人が多くて、表へ出てこず、桜の無い松の木の辺りで何やらやってる、というそんな情景ではないかと思う。
香煎ふる素湯に桜の一重かな 普船
「香煎」には「コガシ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「香煎」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 麦や米をいって挽いて粉にしたこがしに、紫蘇(しそ)や蜜柑(みかん)の皮などの粉末を加えた香味を賞する香煎湯の原料をいう。こがし。
※狂歌・卜養狂歌集(1681頃)冬「或る人の許より、かうせんのおこしけるに、中に匙を入れておこし」
② =むぎこがし(麦焦)〔物類称呼(1775)〕
③ 茶事で、「こうせんゆ」をいう。寄付待合(よりつきまちあい)に人がそろった時、詰(つめ)(=末客)にあたる人、または亭主側から、のどをうるおすために出す。」
とあり、②の麦焦がしは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「麦焦」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 大麦を煎ってこがし、臼でひいて粉にしたもの。これに砂糖を混ぜ、水で練ったりして食べる。また、菓子の材料としても用いる。煎り麦。はったい。麦粉。香煎(こうせん)。麦香煎。《季・夏》
※俳諧・五色墨(1731)「麦こがし我も付木の穂に出て〈蓮之〉 御葛籠馬の通る暑き日〈宗瑞〉」
と夏のものになっている。ここでは①の方で、「香煎湯の原料」とあるように、粉状の「コガシ」を素湯に入れて飲んでいたのだろう。そこに一重の花びらが落ちる。一枚の花弁というよりは、鳥などが落とした五枚の花弁がついた一重の花ということだろう。
くもる日は一日花に照れけり 挙白
この日は花曇りで曇っていたのだろう。それでも花そのものの白い輝きに、あたかも日が照ってるようだ。
さそはれて花に嬉しく親の供 浮萍
浮萍についてはよくわからない。普船とともに元禄三年刊路通撰『俳諧勧進牒』にその名があり、
出がはりのあいだやあそぶ花のとき 浮萍
六阿弥道者のうちむれたる中に
いくたびの彼岸にあふや珠数のつや 同
雛の日や子よりもうばの高笑 同
の句がある。
親と同伴したいきさつは分らないが、親思い、家族思いの人柄が感じられる。
物見よりさくら投げこめ遊山幕 亀翁
は其角の弟子の中でもよく出てくる名前で、元禄七年の大阪への旅にも同行し、住吉大社で他の同行者と一緒に江戸に帰り、其角のみが死の前日の芭蕉のもとを訪ねることになる。『雑談集』にこのあと大山詣の一連の句があるが、この旅にも親子ともども参加している。
名前は「翁」だが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。父も岩翁で其角の門人。
「遊山幕」は花見の人の宴席を囲う幕のことであろう。「物見遊山」という言葉に掛けて、物見をするより、遊山幕に桜を投げ込め、とする。
幕で囲ったんでは花がよく見えないじゃないか。花がなければただの物見だ。ならば、桜を折って遊山幕に投げ込んでやろう。まあ、そこは冗談で、本当に桜の枝を折ったりはしない、というところか。
花の雨小袖惜うてかへるかや 水花
水花はよくわからない。
挙白は「くもる日は」と言ったが、そのうち雨になってしまったのだろう。せっかくの小袖が濡れるのが惜しくて帰るのか、という意味だが、「かや」はこの場合反語に取った方が風流だ。
「嵐蘭が母は田中宗夫と云ひし人の孫にて、かの宗夫の武功をよく知りて語り申されけり。
和州誉田の田夫にてはじめ中間より後ち松倉豊後守の家老となり侍る。
されば子孫に伝えて語りけるに士は畳の上にてむまれ田の畦にて死すべしと、これを家訓として心ざしをかかす懐旧、
死なば爰秕穂に出る小田の霜 嵐蘭」(雑談集)
嵐蘭が鎌倉から帰る途中に客死したのは元禄六年八月二十七日だから、その運命はまだ知る由もない。
嵐蘭の死に際して芭蕉は『嵐蘭ノ誄』を書き記し、許六編の『風俗文選』に収録されている。
母に関しても、
「此三とせばかり、官を辞して、岩洞に先賢の跡をしたふといへども、老母を荷なひ、稚子をほだしとして、いまだ世渡にただよふ。」
と嵐蘭が老母を養っていて、
「七十の母に先だち、七歳の稚子におもひを残す。」
この母のことを気遣うほど、嵐蘭の母親思いは門人の誰しも知る所だったのだろう。
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