2024年2月23日金曜日

 今日も雨。雪にはならなかった。
 それでは「雑談集」の続き。

 「加州金沢の一笑はことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程お宿申さんとて遠く心ざしをはこびけるに、年有りて重労の床にうち臥しければ、命のきはもおもひとりかたるに、父の十三回にあたりて、歌仙の俳諧を十三巻孝養にとて思ひ立ちけるを、人々とどめて息もさだまらず。
 此願のみちぬべき程には其身いかがあらんなど気づかひけるに、死すとも悔なかるべしとて、五歌仙出来ぬれば、早や筆とるもかなはず成りにけるを、呼(カタイキ)になりても、猶ほやまず、八巻ことなく満足して、たれを我が肌にかけてこそさらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

 臨終正念と聞えけり。」

 加州一笑とあえて断らなくてはならないのは、尾張国津島にも一笑がいて、『阿羅野』でも加賀一笑、津島一笑と表記されていて、

 元日や明すましたるかすみ哉    一笑
 いそがしや野分の空に夜這星    同
 火とぼして幾日になりぬ冬椿    同

の三句が加賀一笑の句になる。その他時代は遡るが、芭蕉がまだ伊賀で宗房だった頃の伊賀にも一笑がいる。俳諧というのは本来人を笑わせるものだったから、破顔一笑ということで一笑の号を名乗る人があちこちにいたのかもしれない。
 (なお、底本としている『其角全集』大野洒竹編纂校訂、明治三十一年、博文館は「和州」と書き誤っている。早稲田大学図書館所蔵の『雑談集』を見ると「加」の文字のカの上に点があり、紛らわしい。)
 その一笑は芭蕉の『奥の細道』の旅の前年、元禄元年十二月に亡くなった。ただ、それ以前に、加賀へ来ることがあったら是非我が家に泊っていってくれと芭蕉にも伝えていて、其角もそのことを知っていたようだ。
 芭蕉は象潟で引き返すときに、もっと北へと、津軽や蝦夷も見て見たいという思いを我慢し、失意のまま北陸の海岸線の単調な道を猛暑の中、馬にも乗れずに歩き続け、その時は加賀まで行けば一笑に会えるということを心の支えとしていたのだろう。
 「重労」は早稲田大学図書館所蔵のを見ると「シウロウ」とルビがある。「労」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「労」の意味・読み・例文・類語」に、

 「⑥ =ろう(癆)」

とあり、精選版 日本国語大辞典 「癆」の意味・読み・例文・類語には、

 「① やせ衰えること。また、その病気。
  ② 薬物に中毒すること。薬物にかぶれること。また、その薬物の毒。〔説文解字‐七篇下・疒部〕
  ③ =ろうがい(労咳)〔改正増補和英語林集成(1886)〕」

とある。はっきりとはわからないが、ここでいう重労は重病ということでいいのだろう。
 その一笑はいつ死ぬともわからない状態にあって、父親の十三回忌供養のために、歌仙十三巻を奉納したという。
 十三巻満尾して、臨終の時の句が、

 心から雪うつくしや西の雲     一笑

だった。旧暦十二月の金沢は雪が降り、その美しい雪景色に、雪をもたらす雲もまた西方浄土からやって来るかのように見えたのだろう。

 「翌年の秋、翁も越の白根をはるかにへて丿松が家に其余哀をとぶらひ申されけるよし、

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    翁
 常住の蓮もありやあきの風     何處
 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州
 月すすきに魂あらば此あたり    牧童
 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口」

 そして翌年の七月十五日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢に辿り着く。そこで金沢の大勢の人たちに迎えられて、一笑の死も知らされる。芭蕉も旅の疲れが出るが、曾良も体調を崩して療養が必要になる。
 お盆明けの七月二十日には一泉の家でようやく俳諧興行をして、

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子     芭蕉

の発句を詠むが、これもお盆に備えていた瓜茄子のお下がりを頂きましょうという句であろう。
 七月二十二日に一笑の兄の丿松(べっしょう)のもとに願念寺で追善法要が営まれた。子の語句はその時の追善の句になる。

 塚もうごけ我泣く声は秋の風    芭蕉

 『奥の細道』でも知られた有名な句で、説明も不要であろう。

 常住の蓮もありやあきの風     何處

 何処は大阪の上人でこの時金沢に来ていた。
 「常住」は仏教用語では過去現在未来変わることなく永遠に存在することを言い、無常の反対語になる。常住とはいわば仏であり、仏法でもある。秋風は季節の移ろいの無常を告げるけど、そこには仏様の台座の常住の蓮もあることでしょう、という意味であろう。

 我ばかり啼せて秋の石仏      乙州

 乙州は近江大津の人だが、この時加賀に滞在していた。この句も説明は不要であろう。

 月すすきに魂あらば此あたり    牧童

 牧童は北枝の兄で、北枝の方は曾良が病気で先に帰ったあと、福井まで芭蕉を送っていった。
 薄はその姿から手招きするという意味があり、お盆に返ってきた一笑の魂も、まだこの辺りに留まっているのかな、ということか。月は真如の月の意味もあり、薄に招かれた魂は月の光で成仏する。

 つれ啼きに我は泣すや蝉のから   雲口

 雲口は金沢の人で、この追善法要の翌日には芭蕉を宮ノ越に誘っている。北枝・牧童・小春も同行しているが、曾良はまだ病気が治ってなかったようだ。
 「つれなし」に「啼く」を掛けて、蝉の鳴き声に我も釣られて啼くということか。蝉の抜け殻は、魂が抜けて天に飛び立つという意味で、死を象徴する。
 曾良は病気で追善法要に参加しなかったが、

 玉よそふ墓のかざしや竹の露    曾良

の句を奉納している。竹の露の玉を魂になぞらえて、墓の挿頭とする。神道家だけあって、仏教色がない。

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