2021年12月29日水曜日

 去年のこの日の東京のコロナ新規感染者数は694人。今日は76人。じわじわと増えていて、来年の三桁は間違いない。
 ただ、ワクチン接種が終わっていて、もうすぐ重症化を防ぐ飲み薬も承認されるだろう。特に感染が急拡大したら急ぐに違いない。デルタ株からオミクロン株に置き換わるなら重症化率がさらに下がる。
 来年の一番の見所は、フェーズが変わっているにもかかわらず、今年の初めの感覚のままの人達がどう動くかだ。
 多分この人達は去年は新型コロナの危険性の認識の遅れた人たちではないかと思う。すべてにおいてワンテンポ遅れの人達はどんな局面でも必ずいる。愛をもって見守ろう。
 あと、「から風や」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 今年も残すところ僅か。今日は発句で、『阿羅野』の雪二十句を読んでみようと思う。

   大津にて
 雪の日や船頭どのの顔の色    其角

 相変わらず其角の句はわかりにくい。
 大津で船頭と言えば、大津石場から草津矢橋を繋ぐ矢橋の渡しであろう。
 東海道で琵琶湖を越えるには矢橋の渡しを舟で行くか、それより南の瀬田の唐橋を渡るかに分かれていた。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師

の歌があるように、船は天候に左右されるので瀬田の唐橋を渡った方が確実だった。
 その意味では、雪の日はみんな瀬田の唐橋の方へ迂回したのだろう。船頭殿の暇そうな顔が浮かんでくる。あるいは昼間から酒飲んで顔が赤かったか。

 いざゆかむ雪見にころぶ所まで  芭蕉

 雪見はしたいが、雪道は危なくて転んで怪我をすることもある。それでも転ぶところまでは行ってみたい。
 この句は後に

 いざさらば雪見にころぶ所まで  芭蕉

に改作されている。これだと、旅立ちの離別の句になる。雪だろうと転ぶところまでどこまでも旅を続けるんだ、という決意が込められていて、単に転ぶだけでなく、たとえ死んでもという思いが込められている。
 元禄四年の十一月、芭蕉が上方から江戸に行ったとき、

 ともかくもならでや雪の枯尾花  芭蕉

の句を詠んでいる。転ばずに済んだようだ。

 竹の雪落て夜るなく雀かな    塵交

 雀というと竹薮が雀のお宿と言われている。管理された竹林ではなく、笹が密集して生えているところなど、隠れられるところがあるというのが雀にとって大事で、最近は薮が減少しているため、雀の数も減っている。
 その竹薮に潜んでいた雀も、夜に雪が落ちてくると慌てて飛び回り、夜でもちゅんちゅんちゅんちゅんと鳴く声が聞こえる。

 かさなるや雪のある山只の山   加生

 加生は『猿蓑』などでは「凡兆」の名で知られている。ただ、加生と呼ばれることの方が多かったようだ。
 「雪のある山のかさなるや、只の山(なれど)」であろう。
 雪で真っ白になった山が幾重にも重なっていると、どれもみんな美しく、只の山でもみんな名山に見える。

 車道雪なき冬のあしたかな    小春

 荷車、大八車などの早朝から行き交う道は、そこだけ除雪されている。
 「雪なき」がいわゆるマイナー・イメージになって、道以外はどこも真っ白というのが含蓄されている。
 荷車というと西鶴の『男色大鏡』「この道にいろはにほへと」に、「都は地車(ぢぐるま)のひびき、天秤の音さへ物のかしましきに」とあるから、ステアリングのない四輪車もかなり使われていたのかもしれない。曲がる時には梃子を使って片側を持ち上げて曲がる。

 はつ雪を見てから顔を洗けり   越人

 冬の朝の洗顔は冷たいだろうと思うのだが、多分火にかけてぬるま湯にしてから顔を洗うので、「はつ雪を見てから」になるのだろう。その間に雪景色を心行くまで眺める。

 はつ雪に戸明ぬ留守の庵かな   是幸

 雪が降れば、風流人ならみんな雪見をするために戸を開ける。戸が閉まっている庵があったなら、それは留守なんだろう。

 ものかげのふらぬも雪の一つ哉  松芳

 まあ、一面の雪景色とは言っても、物陰には雪のない所もある。これもマイナー・イメージの句と言っていいのか。

 くらき夜に物陰見たり雪の隅   二水

 前句とセットになったような句で、これ一句だとわかりにくいから、あえて松芳の句を並べたのであろう。
 雪が降ると外は白く光って見えるが、暗い所があれば、それは物陰で雪のない所だ。

 雪降て馬屋にはいる雀かな    鳧仙

 雪が降ると雀も馬屋で雨宿りならぬ雪宿りをする。雀にも宗祇の「世にふるも」の心があるのか。

 夜の雪おとさぬやうに枝折らん  除風

 枝に雪が積もると、夜中にそれが落ちて音を立って睡眠の妨げになる。雪が落ちないようにあらかじめ枝を折っておきたい。
 「らん」と結んでいるように、本当に折ったというわけでない。せっかくの良い枝ぶりの庭の木は、「折りたくもあり、折りたくもなし」であろう。

 ゆきの日や川筋ばかりほそぼそと 鷺汀

 野や畑に一面雪が積もっても、川のある所だけ一筋雪がない。墨絵を書く時の発想か。

 初雪やおしにぎる手の奇麗也   傘下

 初雪が降ったので、それを手に取ってそっと押し握る。汚れなき綺麗な雪がそこにある。

 雪の江の大舟よりは小舟かな   芳川

 画題の瀟湘八景には「江天暮雪」というのがあるが、絵に描くなら大きな船ではなく、小舟が風情がある。

 雪の朝から鮭わくる声高し    冬文

 雪の港であろう。から鮭は蝦夷から北前船で若狭に一度上がり、そのあと陸路で琵琶湖の北に運ばれ、そこから船で大津に陸揚げされる。
 寒さに負けない活気ある港の風景とする。

 雪の暮猶さやけしや鷹の声    桂夕

 雪の光で夕暮れでもまだ明るい。そんな中を鷹の声がする。

 ちらちらや泡雪かかる酒強飯   荷兮

 酒強飯(さかこはひ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「酒強飯」の解説」に、

 「〘名〙 (「こわい」は「こわいい」の変化した語) 酒を造るために、甑(こしき)で蒸した精白米。冬期、米を水に漬けておいてから蒸す。
  ※俳諧・曠野(1689)一「ちらちらや淡雪かかる酒強飯〈荷兮〉」

とある。酒を仕込むために蒸した強飯をいう。
 冬は酒の仕込みの季節でもある。

 はつ雪や先草履にて隣まで    路通

 初雪で雪見にといっても、芭蕉さんのように転ぶ所まで行くのではなく、まずは隣まで。草鞋を履く程のこともなく、草履で出かける。

 はかられじ雪の見所有り所    野水

 雪が降るとどこも景色が良いので、特別な名所でなくても見所がある。

 舟かけていくかふれども海の雪  芳川

 海の雪は琵琶湖の雪であろう。湖の上には雪は積らないので、何日降っても景色は変わらない。
 だからと言ってつまらないというものではなく、何日降っても変らず風情がある。
 雪の徳は特別な名所を必要としないし、特別な時間もないというところで、どこに居ても雪が降れば見る所はある。それがこの雪十句の出した結論と言えよう。

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