女子テニス協会(WTA)の決定は当然のことだろう。オリンピックもIOCが無条件に開催権を認めているのだとしたら問題だ。何らかの改善と取引すべきだろう。中国に入国した選手の安全が保障できないなら、選手を出国させるわけにはいかない。
コロナの方は三回目の接種の前倒しが決まったようだし、感染者数は今のところ増える気配もないし、まだまだ安心だ。散発的なクラスターで一つの地域で一時的に増えることはあっても、全体としては増えていない。
一昨日言ったことは簡単に言えば、マルクスはプロレタリアが資本を共有することを望んだ、ということだ。万人が資本を共有することで階級は無くなる。
しかし、二十世紀の社会主義は万人から資本を奪い取った。今でも左翼はその幻想を追い続けている。大草原。
それでは「なきがらを」の巻の続き、挙句まで。
名残表、七十九句目は膳所の這萃の二回目。
村よりおろす伊勢講の種
暖になれば小鮓のなれ加減 這萃
小鮓は小鮒で作った鮒寿司のことか。鮒寿司は琵琶湖の名物だ。春に獲れた鮒を塩漬けにして夏に漬け込み、翌年の春に食べごろになる。
伊勢講も農閑期に行くことが多く、春の季語になっている。種を持ち帰る事には苗代の季節となり、鮒寿司もほどよく熟れて食べごろになる。
八十句目は臥高の四回目。
暖になれば小鮓のなれ加減
軍ばなしを祖父が手の物 臥高
「手の物」はお手の物というくらいで、軍の話をするのが好きな祖父がいつもなれ鮨を作っているのだろう。
最後の軍となる大坂夏の陣が慶長二十年(一六一五年)だから、元禄七年(一六九四年)の時点で八十五歳以上なら、一応子供の頃の記憶には残っているだろう。二〇二四年に太平洋戦争の記憶を持つ者がどれくらいいるかくらいの話になるが。
豊臣秀吉の天下統一が天正十八年(一五九〇年)とするなら、それからすでに百四年経過している。戦国時代は遠くなっていた。芭蕉の子供の頃だったら、まだ生き証人がいたかもしれない。
八十一句目は其角の四回目。
軍ばなしを祖父が手の物
淵は瀬に薩埵の上を通る也 其角
ウィキペディアによると東海道の薩埵峠の道は、「一六〇七年の朝鮮通信使の江戸初訪問の際に山側に迂回コースとして造られた」のだという。それまでは海岸沿いの、波が高いと通れなくなる、いわゆる「波の関守」のいる難所だった。
軍も遠くなったが、かつて深かった淵が浅瀬になるように、東海道の難所にも薩埵峠の道が開かれ、みんな昔話になって行った。
八十二句目は正秀の四回目。
淵は瀬に薩埵の上を通る也
朝日に向きて念珠押もむ 正秀
薩埵の元の意味はsattvaの音訳で衆生という意味だったが、真言密教では金剛薩埵の意味で用いられる。大日如来の教えを受けた菩薩で、真言密教では第二祖とされる。
そこから朝日に向かって拝むというイメージが出て来る。薩埵峠も東側は海で朝日が拝める。
八十三句目は支考の三回目。
朝日に向きて念珠押もむ
幾人の着汚つらん夜着寒し 支考
前句を寒くて手を擦り合わせる仕草として、夜着を着てもなお寒い冬の明方とする。
「着れば着寒し」という諺と関係があるのか。
八十四句目は膳所の魚光の二回目。
幾人の着汚つらん夜着寒し
わすれて替ぬ大小の額 魚光
額はこの場合は金額のことであろう。前句を旅体として、銭を持ち歩くと重いので、金銀で持ち歩き、その都度銭に両替するが、それを忘れると細々とした支払いに困ることになる。
八十五句目は楚江の三回目。
わすれて替ぬ大小の額
味噌つきは沙彌に力をあらせばや 楚江
味噌つきは味噌の製造段階で豆を搗くこと。沙彌は所帯を持っている剃髪僧。
僧というのは労働しないから非力なイメージがあったのだろう。その上金銭にも疎かったりする。味噌搗きくらいが良い運動になる。
八十六句目は游刀の三回目。
味噌つきは沙彌に力をあらせばや
かな聾の何か可笑しき 游刀
かな聾(つんぼう)は全聾のこと。まあ、「王様ランキング」のボッジのように愛嬌があるということか。非力で味噌搗きも苦手というと、ますますボッジだ。
障害があっても人を笑わせることで生活していた人は、昔から結構いたのだろう。そうした人たちの仕事を今のポリコレが奪ってゆく。何が本当の人権なのか。
八十七句目は風国の三回目。
かな聾の何か可笑しき
ばらばらと恨之助をとりさがし 風国
恨之助はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「恨之介」の解説」に、
「仮名草子。2巻2冊。作者未詳。1612年(慶長17)ごろの成立。慶長(けいちょう)9年6月10日、清水(きよみず)観音の万灯会(まんとうえ)のおり、葛(くず)の恨之介は、関白秀次の家老木村常陸(ひたち)の忘れ形見である雪の前を見初め、仲立ちを通して恋文を送る。恋は成就して一度は契りを結ぶが、恨之介はその後の出会いがままならぬことに耐えかね、最後の文を残して焦がれ死ぬ。雪の前もまたその文を見て悲しみに耐えかねて死に、仲立ちの者たちも後を追って自害する、という筋。物語の展開は中世恋物語の常套(じょうとう)を出ているとはいえないが、当時の風俗や話題、時代の風潮を取り入れた新鮮さによって好評を博し、初期仮名草子の代表作の一つと称するに足る作品となっている。[谷脇理史]
『前田金五郎校注『日本古典文学大系90 仮名草子集』(1965・岩波書店)』▽『野田寿雄校注『日本古典全書 仮名草子集 上』(1960・朝日新聞社)』」
とある。岩波の新日本古典文学大系74の方の『仮名草子集』と小学館の『仮名草子集』は読んだが、日本古典文学大系90の方はまだ読んでなかった。何かこういう場面があるのか。
八十八句目は之道の四回目。
ばらばらと恨之助をとりさがし
顔赤うするみりん酒の酔 之道
料理に用いるみりんはアルコールが入っているので、飲めば酔う。恨之助の相手の女性だろうか。
八十九句目は探芝の三回目。
顔赤うするみりん酒の酔
白鳥の鎗を葛屋に持せかけ 探芝
白鳥鞘の鑓(やり)は奥平忠昌が徳川家康から拝領したとされる槍で、今は大分中津城に展示されている。
家康以前には織田信長が所有していたもので、酒欲しさに葛屋(藁ぶき屋根の家)でみりんをせしめて飲むという、「大うつけ」と呼ばれた信長の所作とする。
信長は酒に弱く、普段は飲まなかったという。まあ、酒豪なら顔を赤くしたりはしない。
九十句目は去来の四回目。
白鳥の鎗を葛屋に持せかけ
三河なまりは天下一番 去来
三河なまりだから徳川家康の方であろう。
九十一句目は尚白の四回目。
三河なまりは天下一番
飯しゐに内義も出るけふの月 尚白
「飯しゐ」はよくわからない。飯を強ふということか。三河なまりの内儀は天下一番とする。
九十二句目は膳所の囘鳧の三回目。
飯しゐに内義も出るけふの月
巧者に機をみてもらふ秋 囘鳧
前句の内儀は機織りの巧者で、月を七夕の月とする。
名残裏、九十三句目は芝柏の五回目。
巧者に機をみてもらふ秋
うそ寒き堺格子の窓明り 芝柏
堺格子は堺戸格子のことか。鉄砲屋格子とも呼ばれる頑丈な格子戸だという。漏れる明りが少ないので余計に寒く感じられる。
九十四句目は土芳の四回目。
うそ寒き堺格子の窓明り
文庫をおろす独山伏 土芳
文庫は書物などを入れる箱のことで、いかつい堺格子にいかつい山伏が付く。
九十五句目は惟然の三回目。
文庫をおろす独山伏
浮雲も晴て五月の日の長さ 惟然
山伏の雲水行脚から浮雲を出す。
九十六句目は丈草の四回目。
浮雲も晴て五月の日の長さ
海へも近き武庫川の水 丈草
武庫川は伊丹や尼崎の方を流れる川で、芭蕉も須磨明石へ行く時は尼崎から船に乗った。中国・九州方面の旅立を思わせる。あるいは芭蕉の見残した西国の旅路に思いを馳せたか。
九十七句目は牝玄の三回目。
海へも近き武庫川の水
寮にゐる外より鎖をかけさせて 牝玄
武庫から兵庫、兵庫寮の連想か。武庫や兵庫が古代に武器庫があったからという説はあるが、さだかでない。
九十八句目は支考の四回目。
寮にゐる外より鎖をかけさせて
思はぬ状の奥に戒名 支考
前句の寮をお寺の寮として、渡された書状に戒名が記されていた。
戒名は今では死んだ人の名前のイメージが強いが、本来は法師として受戒した時に与えられる法名のことだった。
受戒を認められ、目出度く僧になる。
九十九句目は去来の五回目。
思はぬ状の奥に戒名
青天にちりうく花のかうばしく 去来
前句の戒名を死者の戒名とする。死者に戒名を付ける習慣は室町時代からあったという。
青空に散る桜の花は無常ではあるが神聖な空気を醸し出し、西行法師の俤も感じさせる。
なお、芭蕉の戒名は伝わっていない。
挙句は正秀の五回目。
青天にちりうく花のかうばしく
巣に生たちて千里鶯 正秀
千里鶯は杜牧の「江南春望」。
江南春望 杜牧
千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中
千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
水辺の村山村の壁酒の旗に風
南朝には四百八十の寺
沢山の楼台をけぶらせる雨
江南の春の景色の美しさの中、たくさんの鶯が巣立って行く。芭蕉さんの花は散ったが、たくさんの門人がここにいますよというメッセージを込めて、追悼百韻一巻は目出度く満尾する。
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