2021年12月10日金曜日

 今日は大倉集古館へ「篁牛人展」を見に行った。
 独特なデフォルメと渇筆を多用する技法で異彩を放つというだけでなく、古典の画題を大胆に解釈することで伝統絵画を引き継いでいるという点で、もっと高く評価されても良い人だった。
 ピカソのキュービズムの影響があったというが、それでいて西洋の模倣はしていない。視点を固定しない絵というのは、伝統絵画も同じだ。だから、キュービズムはここではしっかりと伝統絵画の世界に溶け込んでいる。
 人物は細い線で白画に近いものにぼかしを入れ、木は龍の如くあるいは雲の如く、岩は折帯皴が基本で、女性はふくよかに描かれる。
 「寒山拾得」には梟が描かれている。「南泉斬猫」は猫を描かず、猫を繋いでいたと思われるリードのみを描いている。さすがに猫まで描いたらスプラッターだ。「雪山淫婆」は逞しい体に幼女のような陰裂が描かれていて、雪の処女か。「訶梨諦母」はこれはメタルだね。
 他にもいい絵がたくさんあって、飽きさせない展覧会だった。
 この後は久国神社、赤坂氷川神社、六本木天祖神社、櫻田神社と狛犬廻りをした。赤坂氷川神社の延宝三年といわれている、芭蕉が江戸に出てきた頃の狛犬を見た。文政や弘化の狛犬もある。
 狛犬廻りの途中、アークヒルズ、ミッドタウン、六本木ヒルズを通った。この素晴らしい街で運転手ながらも仕事ができて、いつも近くに居られたのは奇跡のようなものだろう。
 結局渋谷まで歩いて、富士そばのかつ丼を食って帰った。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「箱根山をしのぎて、相模国をだ原の館に一日滞留して、藤沢の道場に又一日やすらふことありて、発句、

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪

 この磯ちかき眺望なるべし。」(「東路の津登」太田本)

 当時の東海道は、既に足柄ルートよりも箱根ルートが主流になっていた。宗祇も箱根で死んだ。
 標高差を考えるなら、足柄越えの方がはるかに楽だが、箱根越えの方が最短ルートだということで、こちらが選ばれたのだろう。
 伊地知本、西高辻本、祐徳本には「浮島が原を経て」という記述があるが、浮島が原は沼津の手前なので位置的におかしい。
 沼津と田子の浦の間の「原」という宿があった辺りはかつては巨大な干潟があり、それが中世以降の寒冷化で海水の水位が下がって草原になったのであろう。古代東海道は海と干潟を隔てる砂州の上を通っていた。浜名湖の弁天島辺りの風景を想像すればいいかもしれない。
 上代はおそらく田子の浦から興津までは海路を利用していたのだろう。だから赤人の歌も「田子の浦ゆ打出てみれば」となっている。
 箱根を越えれば小田原で、ウィキペディアによれば平安末期には小早川遠平の居館があり、応永二十三年(一四一六年)に駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪ったという。
 そして、ウィキペディアにはこうある。

 「明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書も存在しており、実際に盛時が小田原城に奪ったのはもう少し後(遅くても文亀元年(1501年))と考えられている。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている。以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。」

 宗長のこの「東路の津登」の旅は永正六年(一五〇九年)なので、小田原館はまだ北条氏が入ってなかったか、微妙な時期だ。
 とにかくこの小田原館で一泊し、藤沢へ向かった。「藤沢の道場」はコトバンクの「世界大百科事典内の藤沢道場の言及」に、

 「…25年(正中2),遊行上人位を安国に譲り,藤沢の地に寺を建ててここに住む。これが清浄光寺のおこりであり,当初は清浄光院あるいは藤沢道場と称した。これ以後,遊行上人は引退すると清浄光寺に住むことが慣例となり,これを藤沢上人と呼んだ。…」

とある。清浄光寺は遊行寺とも呼ばれていて、箱根駅伝でもお馴染みだ。今でも国道一号線が通っているように、中世以降の東海道はそこを通っていた。
 さて、その遊行寺での一句。

 朝霧のいづここゆるぎ磯の浪   宗長

 途中通った大磯のこゆるぎの磯を思い出しての句になる。

 玉だれのこがめやいづらこよろぎの
     磯の浪わけ沖にいでにけり
              藤原敏行(古今集)

の歌にも詠まれている。『源氏物語』帚木巻にも、

 「あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて」(主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り、源氏の君はすっかりくつろいで辺りを眺め)

という一節がある。
 小田原を出る時に朝霧がかかって、歌に名高いこゆるき磯はいずこ、となる。

 「八月二日、むさしの国かつぬまといふ所にいたりぬ。上田弾正左衛門氏宗といふ人有。此所の領主也。兼て白川の道々のこと申かはし侍しかば、ここに十四五日ありて連歌ややに及べり。

 霧は今朝分入八重の外山かな

 此山家は、うしろは甲斐国、北はちちぶと云山につづきて、まことの深山とは是をやいふべからん。」(「東路の津登」太田本)

 「武蔵国勝沼は今の青梅で、東青梅駅の北の方に勝沼城址がある。上田弾正左衛門氏宗は三田弾正左衛門氏宗の間違いで、ウィキペディアにも、三田氏宗の項に、三田 氏宗(みた うじむね、生没年不詳)は武蔵国の国人。勝沼城主。子に三田政定がいる。
 三田氏は武蔵国杣保(現在の青梅市周辺)に根を張った国人で平将門の後裔と称していた。
 室町時代には関東管領山内上杉氏と主従関係にあったようで、氏宗は上杉顕定の元で活動している。 長享の乱の際には長尾能景が扇谷上杉氏方から奪い取った椚田城(初沢城)の城主になっている。
 連歌師宗長の「東路の津登」(あづまじのつと)には宗長が永正6年(1509年)8月に勝沼城の氏宗の元を訪れ数日間滞在した事が見える。氏宗は子の政定と共に宗長を手厚くもてなし、宗長滞在中に度々連歌の会を催している事から和歌の嗜みもあったと思われる。」

とある。
 なお、西高辻本には「早川左京大夫行信」となっている。
 遊行寺からここまでのルートはよくわからない。鎌倉街道の上道を使ったか。
 さて、ここでも連歌興行があった。発句は、

 霧は今朝分入八重の外山かな   宗長

で、八重の外山は奥多摩の山々になる。
 ここから多摩川を遡り、大菩薩峠を越えれば甲州の塩山へ抜けられる。途中の軍畑(いくさばた)の辺りから鎌倉街道山の道で北へ向かえば、秩父の方へ抜けられる。

 「おなじ所に山寺あり。前はむさし野なり。

 露を吹野風か花に朝ぐもり

 むさし野の此ごろのさま成べし。」(「東路の津登」太田本)

 山寺は西高辻本、祐徳本には杉本坊とある。
 大悲山塩船観音寺と思われる。勝沼城址の北東にある。

 露を吹野風か花に朝ぐもり    宗長

 花はこの場合草の花で、秋の花野になる。萩、薄、女郎花、藤袴などの咲き乱れる野原に露が降りて、それを秋風が吹き飛ばして行く。

0 件のコメント:

コメントを投稿