2021年12月12日日曜日

 北京オリンピックの方は、日本は政治的ボイコットではなく、オリンピック関係者の派遣ということで妥協するようだ。まあ、名目的にはボイコットにしたくないという所なんだろう。どうせなら北京の開催権を剥奪して札幌開催とか頑張ってほしかったが。
 ふと思ったんだが、古典経済学の「投下労働価値説」というのは農業労働と工業労働を何で一緒くたに論じているのだろうか。
 投下労働価値説というのは、おそらく西洋初期近代特有のロビンソンクルーソー設定なんだと思う。一人の人間が生きてゆくための生産は一人の人間の労働で完結するという前提なんだと思う。あるいは、ルソーの自然人のように、自分が生きるのに必要なものは誰もが自分でまかなえるという前提に立っている。
 大人であればだれもが自給自足ができる、というのはアメリカの開拓者精神にもあったのだろう。それを基礎として、労働とそれによって生産された物の価値が定数として措定され、一人の人間の労働は、一人の人間が平均的に生産する食料と簡単な道具類の価値と等しい、となる。
 そして時間は有限であり万人にとって等しく与えられているというところで、何を生産しようとも、その価値は労働時間に等しいということになる。
 問題はこの「何を生産しようとも」だ。
 人口の九十九パーセントが農民であるなら、確かにこれで問題はない。ただ、少数でも工業労働や商業労働が存在すれば、彼らの生活は農民の生み出す食料の余剰を消費しなくてはならない。
 つまり一人の農民の生産と、一人の職人の生産が同じ価値なら、それを交換することができるが、交換してもそこには一人分の食料しかない。九十九人の農民と一人の職人なら九十九人分の食料があり、それほど問題はないが、商工業が発達して農民の比率が下がれば当然ながら食糧が不足する。一人の農民の生産する農業生産の生産性が向上されているという条件がなければ、相対的に商工業者の労働の価値は下がってしまうのではないか。
 多産多死社会では一般的に農民の余剰生産で養える以上の人口が都市に集まってしまう。そのため都市は食い詰め者の吹き溜まりになり、至る所にスラムが形成され、貧困と不衛生と暴力で多くの人が死んでゆくことになる。そこで誕生した資本主義は、最初から労働者の貧困を背負う宿命があったのではなかったか。
 その意味で古典経済学の投下労働価値説は、都市の食い詰め者にも百姓と同等に生きて行く権利があるという、基本的人権の主張だったのではなかったか。
 投下労働価値説はあまりに理想的であったがゆえに、現実の経済を説明する際に様々な矛盾が生じてしまい、結局限界革命が起きることとなったと考えればいいのか。
 あと、岩波の日本古典文学大系の『假名草子集』の「伊曾保物語」を途中まで読んだ。イソップ童話って有名なもの以外は全く知らなかったので、あらためてこういう話だったのかという感じだ。寓話というよりもイソップとシャントの頓智話と言った方が良いのか。

 それでは「東路の津登」の続き。

 「又二日ばかり終日閑談、忘れがたきことのみ成べし。
 岩松の道場にして所望に、

 花にくまもとあらの萩の月の庭」(「東路の津登」太田本)

 岩松は今の群馬県太田市岩松町であろう。道場は藤沢にもあり、そこでは遊行寺のことだった。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「道場」の解説」に、

 「④ 浄土真宗や時宗で、念仏の集まりを行なう場。簡略なものから、寺院までをいった。
  ※改邪鈔(1337頃)「道場と号して簷(のき)をならべ墻をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事」

とあるから、道場と呼ばれるものはあちこちにあったのだろう。岩松町には岩松山青蓮寺という時宗の寺がある。
 「もとあら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「本荒」の解説」に、

 「〘名〙 木がまばらにはえていること。一説に、根元の方に花も葉もなく荒れていること。また一説に、去年の古枝に花が咲くこと。
  ※曾丹集(11C初か)「我やどのもとあらの桜咲かねども心をつけて見ればたのもし」

とある。

 花にくまもとあらの萩の月の庭  宗長

 萩の花に隈(くま)があるということで何だろうと思わせて、萩の根元の方が花や葉がないので、月が照らしてもそこが暗く見える、ということにする。

 「祖光とてもとより知音の隠者あり。一宿す。一折の望ありしかど、白川よりの帰路とて発句ばかり、

 風の見よ葉にしたがへる萩の露

 小庵のさまなるべし。」(「東路の津登」太田本)

 同じ岩松に祖光という隠遁者の庵があり、そこに一泊する。連歌一折を所望されたが、白川の帰りにということで発句だけ残す。

 風の見よ葉にしたがへる萩の露  宗長

の句だが、他の本では「風も見よ」となっていて、こっちの方が正しいのだろう。
 萩の葉に降りた露が風に吹かれて移動してゆく様を「葉にしたがへる」と表現する。
 そのあとに「小庵のさまなるべし」というのは比喩の意味も含めて、露を小庵に喩え、こういう不穏なご時世ですから、風のままに小庵に籠って隠棲するのが賢明でしょう、という意味を込めている。

 「静喜より若殿原そへられて、下野国あしがらへをくらるる。
 学校に立寄侍れば、孔子・子路肖像をかけられたり。爰かしこのひと間ふた間の所々をしめて、諸国の学校かうべをかたぶけて、日ぐらし硯にむかへるさまかしこくかつ哀にも見え侍り。鑁阿寺一見して、千住院といふ房にて茶などのつゐでに、今夜は爰にとしゐてありしに、此院主もと草津にて見し人也。かたがたいなびがたくて三日ばかり有て連歌あり。

 ふけ嵐散やはつくす柳かな

 てにはいかがおぼえ侍り。」(「東路の津登」太田本)

 若殿原はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「若殿原」の解説」に、

 「〘名〙 若い侍たち。若い人たち。
  ※平家(13C前)七「わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし」

とある。
 新田の静喜から若侍を護衛兼案内役に付けてもらい、足利へ向かう。「あしがら」は「あしかが」の間違いであろう。今でも間違えやすい。
 足利といえば足利学校で、ここに立寄る。ウィキペディアには、

 「室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。」

とある。その内容は、

 「上杉憲実は1447年(文安4年)に足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めた。この中で足利学校で教えるべき学問は三註[6]・四書・六経[7]・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べており、教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。従って、教育の中心は儒学であったが、快元が『易経』のみならず実際の易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。」

と言うように儒教が中心だった。
 鑁阿寺(ばんなじ)はウィキペディアに、

 「鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。」

とある。元は足利氏の館で、館内に大日如来を奉納した持仏堂を建てたのが始まりだという。足利学校の裏側に隣接している。
 ここに三日ほど滞在し、連歌会も行われた。

 ふけ嵐散やはつくす柳かな    宗長

 折から台風が近づいていたのか。「散やはつくす」は「散りつくすやは」の倒置。「やは」は切れ字の「や」と意味的には同じに考えていいが、「は」という助詞で後ろに繋がるので切れ字にはならない。地理尽くしてしまうかもしれない、散り尽くすもまた良い、柳かなと繋がる。
 「てにはいかがおぼえ侍り」とあるように、苦心したてにはの使い方だったのだろう。
 散る柳は、

 下葉散る柳のこすゑうちなびき
     秋風たかし初雁のこゑ
              宗尊親王(玉葉集)

などの歌に詠まれている。

 「日をへだてずして東光院威徳院興行に、

 風はわかし松に吹音萩の声
 杉の葉に月も木高き軒端哉」(「東路の津登」太田本)

 東光院威徳院は鑁阿寺内にあった。かつては今よりはるかに広い面積があったのだろう。十二の院があったという。

 風はわかし松に吹音萩の声    宗長
 杉の葉に月も木高き軒端哉    同

 「風はわかし」はこの場合は若者のように荒々しいということか。
 足利でも強い風が吹いていた。その風はまだ止まずに、この日も松や萩を音を立てて吹き付けていた。
 もう一つの句は、境内の背の高い杉の木の遥か上の方の月が、この連歌会の行われている部屋の軒端から見える、というその場の景を詠んだものであろう。

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