そういえば鈴呂屋書庫の古典文学関係のところに、
「忘れてしまったのかい
俺たちは突然この世に現れ 去って行かねばならない旅人じゃないか」
と書いていたが、今もこの生きている意識がどこから来たのかはわからない。前世があったとしてもその記憶がない。ということは皆前世の記憶がないというだけで、実はみんな異世界転生者なのではないか。
多分人が異世界転生というテーマに惹かれるのも、この人生がそもそも突然この世界に投げ込まれたところから始まっているからではないのか。
カミュは『シジフォスの神話』の中で、
「たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分をエトランジェ(異邦人)と感じる。」
と言っている。このエトランジェは今なら転生者と訳しても良いのではないか。
生まれてから慣れ親しんで習慣化している世界が、ある時不条理に満ちた、自分を寄せ付けない、異質なものに思えた時、人は異世界転生者のようなものではないか。
ならば、カフカの『変身』は「転生したら毒虫だった件」と訳しても良いのではないか。『城』は完全に異世界に迷い込んだ測量士Kの物語だ。
突然放り込まれた世界で自分の居場所を見つけてゆく物語は、奇妙な空想ではなく、いつでも我々の現実だ。
人は生まれてきた時に、王子様に生まれる人もいれば田舎の片隅の農家に生まれる人もいる。それを選ぶことはできない。それはよくわからない神様か運営が決めるようなものだ。人生は最初の瞬間からガチャだ。
スキルについても稀にチート級の「天才」に生まれることもあるが、ほとんどの人間はモブとして生まれる。
そういうわけで異世界転生ものを読めば読むほど、気分は高校生の時にカミュやカフカに出会ったあの頃に戻って行く。
江戸時代の人だったら「旅人」と呼び、戦後の人だったら「異邦人」と呼ぶ。それが今「転生者」になっただけで、きっと人間というのは変わらない。それが不易なんだろうな。
それでは「から風や」の巻の続き。挙句まで。
二十五句目。
芦穂の中をのぼる新三
ひとしきりしづめて渡る鴛の声 路通
オシドリはウィキペディアに、
「日本では北海道や本州中部以北で繁殖し、冬季になると本州以南(主に西日本)へ南下し越冬する。オシドリは一般的に漂鳥であるが、冬鳥のように冬期に国外から渡って来ることもある。」
とある。渡ってきたオシドリを芦穂の新参とする。
オシドリは今はここでは秋として扱われている。
二十六句目。
ひとしきりしづめて渡る鴛の声
身肉を分し子に縁をくむ 路通
身肉はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「身肉」の解説」に、
「み‐しし【身肉】
〘名〙 からだ。身。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一七「鹿を つまこひにさこそやつれん身ししかな〈雲〉」
とある。オシドリが鴛鴦夫婦と呼ばれるように、仲のいい夫婦の象徴として用いられる。子供にも良縁を組む。
二十七句目。
身肉を分し子に縁をくむ
人しれや白髪天窓に神いじり 知足
「白髪天窓」は「しらがあたま」と読む。
「神いじり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神弄」の解説」に、
「〘名〙 誠の信心からではなく、みえや形式だけで神参りすることをとがめていう語。神いびり。神せせり。神なぶり。
※歌舞伎・阿国御前化粧鏡(1809)序幕「小さん坊、無性やたらに、お百度お百度と、神いぢりも大概にするがよい」
とある。
咎めてにはの句だが、前句の実の子の縁組に、人はすぐ歳を取るから早く結婚して親を助けよということと、形だけの神への誓いをするな、ということか。
二十八句目。
人しれや白髪天窓に神いじり
夢見たやうな情わすれぬ 知足
咎めてにはの後は、咎める言葉に同意するように付けるのが普通だ。
白髪頭になっても若い頃の情を失ってはいない。人がすぐに歳を取ることと、神に誓ったことをおろそかにしていないということを守った、というふうに展開する。
二十九句目。
夢見たやうな情わすれぬ
四條より結句糺のゆふ涼 路通
結句は漢詩の最後の句で、連歌や俳諧の挙句と同じように、その結果、挙句の果て、の意味で用いられる。
四条河原の夕涼みは有名で、多くの人でにぎわった。そのまま夢見心地に賀茂川を歩きいつの間にか下賀茂神社の糺の夕涼みになってしまった。糺も夕涼みの名所だった。
三十句目。
四條より結句糺のゆふ涼
もんどりうつて郭公啼 路通
「もんどりうつ」は宙返りすること。
糺の森のホトトギスは謡曲『賀茂』に、
「御手洗の、声も涼しき夏陰や、声も涼しき夏陰や、糺の森の梢より、初音ふり行く時鳥」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.5437-5440). Yamatouta e books. Kindle 版. )
とある。ホトトギスの名所だった。
ただホトトギスを出しても普通だからということで、「もんどりうって」と取り囃す。ホトトギスが宙返りするのではなかろう。
謡曲『賀茂』のそのあとに、
「水に浸して涼みとる、涼みとる裳裾を湿す折からに、山河草木動揺して、まのあたりなる別雷(わけいかづち)の、神体来現、し給へり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.5564-5569). Yamatouta e books. Kindle 版. 。
謡曲『賀茂』のそのあと、)
となる。雷様(わけいかづちの神)がもんどりうって落ちてきて、ホトトギスを聞く。
二裏、三十一句目。
もんどりうつて郭公啼
あの雲をひよつと落ちたる地雷 知足
ここでは普通に雷が落ちたのにびっくりして、人がもんどりうって倒れ、ホトトギスを聞く。
三十二句目。
あの雲をひよつと落ちたる地雷
おさまつてよむ理趣経の頭 知足
理趣経はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「理趣経」の解説」に、
「大乗仏教の最初期の経典。仏の真実の境地に至る道(理趣)を示せる経を意味する。具名(ぐみょう)を『般若(はんにゃ)理趣経』という。また不空(ふくう)訳では、『大楽金剛(だいらくこんごう)不空真実三摩耶(さんまや)経』が具名で、「般若波羅蜜多(はらみった)理趣品(ぼん)」が異名であるとされ、その逆に解釈することもある。後期の『般若経』の一つで、『大般若経』の547巻の「理趣品」の発展形態である。密教経典の一つとしてみれば、第六全の『金剛頂経』の一部(大楽最上経)とも解釈できる。要するに本経は、大乗仏教の極地である「般若=空」の思想が発展の極地に達し、いまや、空より不空、不空真実の境地を示すに至ったと理解すべきものである。空は理念上の境地でなく、実践のすべてを自由無礙(むげ)たらしめる無執着の境地を意味するに至った。ここを示すため、いまやこの経典を示す説法の場は「他化自在天王宮」の中となり、説法の主は薄伽梵毘盧遮那如来(ばがぼんびるしゃなにょらい)となり、すべて従来の現実のインドの舞台を離れて、完全に秘密の仏国土に移っている。徹底した現実肯定の「不空」「大楽」の世界観の背後には、強い自己調伏(ちょうぶく)(降伏(ごうぶく))の道が示されている。本経は、密教の極意を示すものとして真言宗では常に読踊(どくじゅ)される。[金岡秀友]」
とある。
雷で電光石火悟りを開くというのはあるが、何か閃いて急に理趣経を読んだか。
三十三句目。
おさまつてよむ理趣経の頭
天井は生てはたらく古法眼 路通
古法眼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「古法眼」の解説」に、
「〘名〙 父子ともに法眼に補せられた時、その区別をするために父をさしていう称。特に狩野元信をいう。
※俳諧・信徳十百韻(1675)「机の朱筆月ぞ照そふ 古法眼したふながれの末の秋」
とある。
この場合の天井は最高位ということか。法印にはなれなくても、生きているうちに息子が法眼になり古法眼と呼ばれる、ここが天井となる。
三十四句目。
天井は生てはたらく古法眼
翠簾のうちから猫の穿鑿 路通
翠簾(すいれん)は青い簾。前句の古法眼を天井裏の鼠と間違えたか、猫が狙っているとする。
三十五句目。
翠簾のうちから猫の穿鑿
花盛ぎつしとつまる大芝居 知足
芝居小屋は超満員で、猫までが中を覗いている。
挙句。
花盛ぎつしとつまる大芝居
旅をせば日の永頂上 執筆
芝居といえば旅芸人で、花の下での公演は大盛況で、春の長い日の太陽も頂点にある。
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