三日の日記で訂正を一つ。土浦の国府ではなく、常陸の国府はその先に石岡でした。ここから筑波山に登って反対側から降りるというのが、桃隣のルートだった。
「白河紀行」の次ということで、宗長の「東路の津登」を読んでみようと思ったが、手元にある重松裕巳編『宗長作品集』(一九八三、古典文庫)には五つの事なるテキストが掲載されている。
宗長の研究者ではないので細かいことはよくわからないが、五つもあると、どれを読んでいいのか流石に迷う。太田本、彰考館本、伊地知本、西高辻本、祐徳本の五つで、長さも違う。
まあ、とにかく難しいことを考えずに、一番短い「太田本」を基本として読んで行こうかと思う。
一つには書き出しで、「白河のせきのあらまし」から始まるのが太田本、彰考館本、伊地知本の三つで、あとの二つは「我久しくするがの国に」で始まる。これは紀行文の著述意図の全く違う二つの原本があったのではないかと思う。
つまり、普通の日記として意図されて書かれた「我久しく」と、白河への旅に焦点を絞った「白河の」の文章があったのではないかと思う。多分日記の方が元にあって、その後に白河に絞った文章が後になって作られたのだろう。
今回は「梵灯庵道の記」、「白河紀行」に続くものとして読む分には、白河に焦点を絞りたいという、こちらの勝手な意図で読むので、一番短い太田本にする。詳しい諸本の系譜は専門の研究者に任せる、ということにしておきたい。
「白川の関のあらまし、霞と共に思ひつつなん幾春をか過けむ。此秋をだにとて、永正六年文月十六日とさだめて思ひ立ぬ。その日は草庵りんか成人、一折と有しかばいなびがたくて、
風に見よ今かへりこむくず葉かな
わかれ路に生ふる葛の葉のといふ古歌を思ひ出侍るばかり也。此ほどは丸子といふ山家に有し也。」(「東路の津登」太田本)
「りんか成人」は彰考館本に「隣家なる人」とある。この方が読みやすい。
この隣家が誰なのかというと、西高辻本には「田辺和泉守」とあり、祐徳本には「斎藤加賀守安本」とある。よくわからない。
「わかれ路に」の古歌は、
ふるさとを別れ路に生ふる葛の葉の
秋はふけどもかえる世もなし
後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)
で、『増鏡』にも記されている。
宗長の駿河国丸子の柴屋軒で、隣家の人から連歌一折(二十二句)巻いた時の発句として、
風に見よ今かへりこむくず葉かな 宗長
の句が詠まれる。
これから白河の方へ旅に出ようと思うが、別れ路に生うる葛の葉の秋風に吹かれる季節ではあるが、後鳥羽院のように島流しになるわけではなく、すぐに帰ってくるから、と出発する。
「十九日に駿河のかうより出立て、興津の館に立より侍り。亭主左衛門の宿所この比新造して、態などいふおりふしなれば興行に、
月の秋の宿とやみがく玉椿
あたらしき家を賀し侍也。」(「東路の津登」太田本)
「かう」は国府(こう)で、駿府のこと。今の静岡駅のある辺り。「興津の館」は興津館(おきつやかた)で今の興津駅の北西の宗徳院という寺に興津館跡がある。コトバンクの「世界大百科事典内の興津氏の言及」に、
「東は興津川・薩埵(さつた)峠,西は清見寺山が駿河湾に迫る東海道の難所,清見寺山下には清見関が設けられ,坂東への備えとした。鎌倉時代以降は入江氏支流の興津氏が宿の長者として支配,室町時代以降今川氏の被官となった興津氏はこの地に居館を構え,戦国期には薩埵山に警護関を置いた。」
とある。
「亭主左衛門の宿所」は彰考館本には「亭主左衛門尉宿所」とある。左衛門尉は官職名で、代々左衛門尉を名乗っていたか。
「態」は彰考館本には「わざども」、伊地知本には「態も」とある。
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「態と」の解説」に、
「① こうしようという、ある意図や意識をもって事を行なうさまを表わす語。現在では、そうしなくてもいいのにしいてするさまにいう場合が多い。わざわざ。意識的に。わざっと。
※後撰(951‐953頃)恋二・六一三・詞書「わざとにはあらで、時々物いひふれ侍ける女の」
※平家(13C前)四「其日を最後とやおもはれけん、わざと甲(かぶと)は着給はず」
② 状態がきわだつさま、格別に目立つさまを表わす語。とりわけ。特に。
※蜻蛉(974頃)中「心地いとあしうおぼえて、わざといと苦しければ」
※更級日記(1059頃)「わざとめでたき草子ども、硯の箱の蓋に入れておこせたり」
③ 正式であるさまを表わす語。本格的に。
※落窪(10C後)二「わざとの妻(め)にもあらざなり」
④ 事新しく行なうさまを表わす語。あらためて。
※枕(10C終)八「わざと消息し、よびいづべきことにはあらぬや」
※宇治拾遺(1221頃)九「この度は、おほやけの御使なり。すみやかにのぼり給て、またわざと下り給て、習ひ給へ」
⑤ ほんの形ばかりであるさまを表わす語。ほんのちょっと。少しばかり。わざっと。
※俳諧・野集(1650)五「樽は唯わざとばかりの祝言に よひあかつきにくるしみぞ有」
※浮世草子・世間御旗本容気(1754)四「生鯛一折、酒一樽、態(ワザ)と祝ひて軽少ながら進上」
とあるが、ここでは「態」は「わざと」と読み、④の意味か。
ここでも連歌興業が行われ、発句を詠む。
月の秋の宿とやみがく玉椿 宗長
文月十九日でまだ初秋だが、秋にここに泊まるということで「月の秋の宿」とする。句は「月の秋の宿と玉椿をみがくや」の倒置で、玉椿は椿を美化して言う場合もあれば、白玉椿、柾、ねずみもち、香椿の別名でもある。葉の艶が良いということで玉と呼ばれ、「みがく」とする。なお、連歌では椿は無季。
「おなじ国沼津といふ所にて、長福庵とて是も新造のために一折興行。
松に見ん年にまさごの秋の庵
伊豆の三嶋にて、ある人宿所の法楽に所望せしに、
時わかぬ秋や幾秋軒の松」(「東路の津登」太田本)
沼津までは駿河国で、隣の三島は伊豆国になる。伊豆国府はかつて三島大社の所にあったという。伊豆国国分寺も三島広小路駅の近くにある。
その沼津長福庵の新造のための一折興行の発句。
松に見ん年にまさごの秋の庵 宗長
「松に見ん年」は「松に年を見ん」で、常緑の松は長寿の象徴でもあり、今真砂の上に立つ松のように、この新しい庵も歳を取るまで安楽の地であるように、という願いを込めた句であろう。
三島の発句は法楽のために仏前に捧げる句で、これを発句として法楽連歌が興行されたのかどうかはわからない。
時わかぬ秋や幾秋軒の松 宗長
句は複雑な倒置で、「幾秋の時や分かぬ軒の松」が「時やわかぬ幾秋の軒の松」となり、「時わかぬ秋や幾秋」となったものだろう。軒の松は幾秋を経てかもわからない程、長い年月を経ている。
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