2021年12月6日月曜日

 『共産党宣言』についてちょっと触れてみて、はたと気が付いたが、これってラスボス戦?冗談じゃない、「ぬののふく」と「ひのきぼう」しかないのに、どうやって戦えというのか。
 『資本論』はいわばラストダンジョンで、三層構造になっている。大概の左翼のザコは一層で逃げ帰っている。
 二層三層に入ろうとすると、何やらデヴィッド・ハーヴェイとかいうガーディアンがいるらしい。どうでもいいけど。
 大体、資本主義をぶっ潰せばそれでいいというんなら、マルクスは『資本論』なんて書く必要なんてなかったはずだ。どうせなくなる資本主義を分析したってしょうがない。わかりそうなものだ。
 今の左翼の考えそうなことは、せいぜい資本主義は今まで通り資本家に任せて、ただ国家権力という巨大な暴力装置でそいつらを脅して、奴隷として飼いならそうという程度の発想だろう。シーさんの考えそうなことだ。
 資本主義を国家権力の管理下に置くには、グローバル市場を否定し、資本主義を国家内部で完結させなくてはならない。日本共産党の民主主義革命は基本的にその方向に行くものだ。
 ただ、シーは違う。世界を中国政府の管理下に置こうとしている。日本が民族自決権に基づいて日本独自の資本主義を守ろうとするなら、早かれ遅かれ戦争になる。つまり、侵略者がいる限り、どっちを選んでもそこに行きつくということだ。
 いずれにせよ巨大な権力を生み出すシステムは、必ず世界征服の誘惑に駆られて、いつ第三次世界大戦が起こってもおかしくない。
 国家権力に対抗できるのは現時点ではグローバル市場の力だけだ。その意味ではデヴィッド・ハーヴェイの言う「新自由主義」が、実は唯一の正解だ。そして何で左翼がこの新自由主義を目の敵にするのか、説明する必要もないだろう。
 新自由主義が再生可能資本主義になり、労働者が資本主義をきちんと学んで資本の運用に参加するようになることで、社会主義はアウフヘーベンされる。その道筋にもうみんな気付き始めている。
 マルクスの夢見た歴史の終焉の扉はそっちだ。

 それでは「白川百韻」の続き。

 二表、二十三句目。

   たづぬる山は雲ふかきかげ
 水氷る雪のむら鳥餌に餓て      宗祇

 前句の「たづぬる」を鳥が食べ物を探しに山に入るとし、雪や氷に食べ物がなくなったとする。
 二十四句目。

   水氷る雪のむら鳥餌に餓て
 冬の田づらのくれの哀れさ      穆翁

 前句を冬の田んぼの景色とする。
 二十五句目。

   冬の田づらのくれの哀れさ
 送りえぬ今年をいかが賤の庵     宗祇

 困窮した職能民の庵だろうか。収穫の終わった百姓を余所目に見て、村を去っていくことを考えているのだろう。
 二十六句目。

   送りえぬ今年をいかが賤の庵
 けぶりをたやす袖のあきかぜ     牧林

 食う物もなければ、炊飯の煙も絶える。
 二十七句目。

   けぶりをたやす袖のあきかぜ
 おもひ無き月に泪もはらはれて    穆翁

 前句の秋風から月を登場させ、「けぶりをたやす」を月が見えるように火を消すとする。
 悲しいが月に慰められる。
 二十八句目。

   おもひ無き月に泪もはらはれて
 又身をしれる雨の夜長さ       宗祇

 月が出れば涙も払われるが、雨の夜は我が身の拙さを思い知る。違え付け。
 二十九句目。

   又身をしれる雨の夜長さ
 問こぬもことはりなれや我よはひ   尹盛

 前句の「夜長さ」を男の通ってくるのを待つとし、「身を知れる」に自分の歳を思い知る。
 三十句目。

   問こぬもことはりなれや我よはひ
 いのちつれなくみえんさへうし    牧林

 「いのちつれなく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「命つれなし」の解説」に、

 「死にたいと思っても容易に死ねない。死ぬに死ねない。
  ※謡曲・柏崎(1430頃)「命つれなく候はば、三年(みとせ)のうちに参るべし」

とある。
 年齢のせいで通ってこなくなったも辛いが、だからといって余生が短いというほどの歳でもなく、まだまだ死ぬに死ねない。
 三十一句目。

   いのちつれなくみえんさへうし
 跡たえて恋路に入らん山もがな    宗祇

 後を追って死ぬほど思い切れないから、山に籠り遁世して、そこで君のことを思いながら余生を過ごすことにしよう。男の歌に転換する。
 三十二句目。

   跡たえて恋路に入らん山もがな
 行衛おぼえぬ雪の夕かぜ       穆翁

 恋路の山の厳しさの比喩として、これから先どうなるかわからない日暮に吹雪く雪のようだ、とする。前句の「跡たえて」が、雪で足跡すら消えて行くという意味になる。
 三十三句目。

   行衛おぼえぬ雪の夕かぜ
 果しなき心は花にさそはれて     尹盛

 降る雪はしばしば散る花の比喩として用いられるが、ここではどちらも精神的なもので、人生に花のような輝かしいものを求める心は際限がなく、それに迷えばいつの間にか散る花は吹雪に代わり、どうしていいのかもわからなくなる。
 三十四句目。

   果しなき心は花にさそはれて
 夢をかぎりの世中の春        牧林

 人生は一時の夢だと仏教は教えてくれるが、それでも夢に花を求めてしまう。人に生まれ来たというのはたった一度の春なのだから。
 三十五句目。

   夢をかぎりの世中の春
 身はふりぬはや永日もよしあらじ   宗祇

 この世の夢のような春もあっという間に終わってしまう。やがて人は年老いて行く、春の長い日もいつまでも続くわけではない。
 三十六句目。

   身はふりぬはや永日もよしあらじ
 なげきなつめそ入相のかね      穆翁

 年を取っていつかは死んでいくからと言って、それを憂いて自ら命を詰めるでないぞ、と入相の鐘が教えてくれる。咎めてには。

 二裏、三十七句目。

   なげきなつめそ入相のかね
 物思ふ袖になみだのつきもせで    句阿

 死んだりするな。誰だって思い悩み、袖に涙は尽きないものだ。

 三十八句目。

   物思ふ袖になみだのつきもせで
 人よわすればうきも残らじ      牧林

 「人よ」は人世で、世俗を断って出家すれば憂鬱ものこらない。釈教。

 三十九句目。

   人よわすればうきも残らじ
 心ある里をとはばや旅のくれ     宗祇

 どこか良い郷を見つけに旅をすれば、いつかその果てに今までの苦しめてきた人たちのことも忘れられる。前句を「人わすればうきも残らじよ」の倒置とする。
 四十句目。

   心ある里をとはばや旅のくれ
 たのみてとまる山ぞさびしき     穆翁

 自分を受け入れてくれる里を探して旅を続けるが、ここはと思って泊まった山里は、ただ淋しいだけだった。
 四十一句目。

   たのみてとまる山ぞさびしき
 烏鳴く峯の枯木に霜ふりて      牧林

 前句の「とまる」を烏がとまると掛けてにはにして、冬枯れの山に泊まるのは淋しい、とする。
 四十二句目。

   烏鳴く峯の枯木に霜ふりて
 雲もさはらぬ冬の夜の月       尹盛

 枯れ木にカラスの鳴く峯の上の雲一つない空に、冬の月が寒々としている。
 四十三句目。

   雲もさはらぬ冬の夜の月
 河音の高きや空にながるらん     宗祇

 川音の大きく響きわたるという意味の「高く」と空の高くに掛けて、川が冬の夜空に流れているのだろうか、とする。澄み切った夜空には天の川が見える。
 四十四句目。

   河音の高きや空にながるらん
 落ちくる水ぞ風をつれたる      牧林

 前句の「高き」を、高い所から流れ落ちる滝とする。

   望廬山瀑布  李白
 日照香炉生紫煙 遥看瀑布掛長川
 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

 日の照る香炉峰に生じる紫の煙。
 遥かに見える「瀑布」という長い川の布を掛けたかのように、
 流れは空を飛んで三千尺真っ逆さま。
 これは九天の銀河が落ちて来てきたのかも。

の心。落ちる水が涼しい風を運んでくる。
 四十五句目。

   落ちくる水ぞ風をつれたる
 荻のはに軒の筧のうづもれて     穆翁

 軒の筧は枯葉に埋もれ、筧から落ちる水が「荻の上風」を連れて来る。風に荻は付け合いになる。
 四十六句目。

   荻のはに軒の筧のうづもれて
 野寺にふかき庭の朝霧        宗祇

 前句を野寺の朝の景色とする。
 四十七句目。

   野寺にふかき庭の朝霧
 道もなき霜にや秋も帰るらん     尹盛

 朝霧に道も隠され、そこに霜が降りれば秋も帰って行ってしまったのだろうかと、秋も終わりとする。
 四十八句目。

   道もなき霜にや秋も帰るらん
 まれにも人の見えぬ山陰       穆翁

 秋も終わり紅葉も散ると、わざわざこの山陰に来る人もいなくなる。
 四十九句目。

   まれにも人の見えぬ山陰
 かかる身はすつるといふもおろかにて 宗祇

 前句を世捨て人の隠棲とするが、捨てるなんてそんな恰好良いものではない。むしろ世から捨てられてしまったんだ、とする。
 五十句目。

   かかる身はすつるといふもおろかにて
 猶わびつつぞ交りてふる       尹盛

 身を捨てきれず、世俗の交わりを続けながら年を経て行く。

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