2021年12月8日水曜日

 今日は雨で寒い一日だった。
 IOCは勘違いしているね。政治的ボイコットが政治介入なのではなく、オリンピックを政治外交に利用すること自体が政治介入だ。正常な状態に戻すだけのことだ。
 今日は真珠湾奇襲作戦から八十年。こんな日にまたロシアの方の不穏な動きが伝わってくる。バイデンさんは経済制裁で対抗するというが、経済制裁の無力は北朝鮮でもイランでも証明されている。全世界が一致団結できるなら効果はあるかもしれないが、世界が東西に分断されている現在では、一方を封じても一方が残るだけでほとんど効果がない。
 元から中国とロシアは孤立資本主義路線を取っている。独自のブロック経済を加速させるだけで、経済制裁は全く無力と言っていい。
 ロシアや中国はアメリカの核が飾り物だと思っているのだろう。どうせ使えやしない核なんて怖くないとばかりに、これからもやりたい放題やってくる。今の世界の核抑止力は間違いなく低下している。だからといって民衆の力も市場の力も戦争を止められないとなれば、何が戦争を止めるというのだろうか。
 コロナの恐怖で人心が動揺している中で、怪しげな情報が流れ、特に欧米社会が分断され混乱している。やるならコロナが収まりきらぬ前だと思う。
 オミクロン株が強毒なのか弱毒なのかでこれからの情勢は大きく変わってくる。弱毒で一気にコロナ時代が終わるのに期待するしかないのか。
 コロナは偶発的な事故だったのかもしれないが、結果的に後付けで生化学兵器として機能している。コロナが長引くことで、その混乱に乗じた戦争というもっと大きな危機が迫ってきている。みんな、その時は地べたを這い泥水すすってでも生き延びよう。
 あと、nuriéのベースの小鳥遊やひろさんが新東名で渋滞の最後尾に止まっていた所、トラックに追突され、亡くなったというニュースを見た。他のメンバーも怪我をしたという。「人として人で在る様に」「命に値札を貼られ生きる。」など、プレイリストに入れて聞いていたので、まさか知ってるバンドが巻き込まれていたとは。

 それでは「白川百韻」の続き。挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   秋の村には風ぞさえぬる
 ふくるまま砧のをとの近き夜に    穆翁

 秋風の吹く夜も更けて行く頃、村からは砧打つ音が聞こえてくる。

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
                藤原雅経(新古今集)

を本歌とした付け。
 八十句目。

   ふくるまま砧のをとの近き夜に
 よそのおもひも聞くからぞうき    牧林

 砧の音の悲しさは、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

の詩の心によるものだが、それを悲しく聞くのは衣を打っている張本人ではない。余所の人の思いに感じ入るから悲しい。
 八十一句目。

   よそのおもひも聞くからぞうき
 鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて   宗祇

 京の鳥野辺は葬儀の行われた土地で、そこで火葬にしている人に、亡くなった人の名前を問えば、他人事ながら悲しく思えてくる。哀傷に転じる。
 八十二句目。

   鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて
 消えなん事を歎く身のうへ      牧林

 煙が空に消えて行くように、他人の葬式であっても、自分もいつかこうして空に消えてゆくんだなと嘆く。
 八十三句目。

   消えなん事を歎く身のうへ
 望みある道に心やのこらまし     尹盛

 「望みある道」は仏道のこと。いつかは死んで行く無常を歎くなら、仏道に望みをかけてみようか。釈教に転じる。
 八十四句目。

   望みある道に心やのこらまし
 伝へん法の数なおしみそ       宗祇

 弟子への説法の伝授に悔いを残さぬよう、惜しむ所なくすべて伝えよ、とする。
 八十五句目。

   伝へん法の数なおしみそ
 松島は舟さすあまをしるべにて    穆翁

 見仏上人の故事による本説であろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「見仏」の解説」に、

 「生年:生没年不詳
 鎌倉初期の僧。奥州松島の雄島に住み,法華経の教義を人びとに授けた。法華浄土への往生を説いて,死後の不安を解消させた。死者の声を伝達することもあったらしい。空を飛ぶ超能力で知られる。「月まつしまの聖」「空の聖」の別称がある。北条政子は仏舎利2粒を見仏に寄進して,源頼朝の供養を依頼した。その書状(写)が瑞巌寺に現存する。平安末期の見仏は,かれの先代に当たる。この人も雄島に住み,法華経を読み,奇跡を現した。鳥羽院から姫松千本,本尊,器物を下賜されたという。(入間田宣夫)」

とある。
 八十六句目。

   松島は舟さすあまをしるべにて
 波に笘屋のやどりをぞかる      尹盛

 松島に波の苫屋は、

 立ちかへり又も来てみむ松島や
     雄島の苫屋浪にあらすな
                藤原俊成(新古今集)

であろう。「立ちかへり」は、

 立ちわかれいなばの山の峰におふる
     まつとし聞かば今かへりこむ
                在原行平(古今集)

の舞台を須磨から松島に移したもので、松島の海女の家に宿を借りる都人という趣向にしている。
 尹盛の句もその設定を借りて、都人が松島の波の苫屋に宿を借りるとする。
 八十七句目。

   波に笘屋のやどりをぞかる
 月も見よかかる藻汐の小夜枕     宗祇

 「小夜枕」は、

 松が根の雄島が磯のさ夜枕
     いたくな濡れそ蜑の袖かは
                式子内親王(新古今集)

の歌に用いられている。
 藻塩の小夜枕は「濡れる」ということで、我が泪を月も見よ、という意味になる。
 八十八句目。

   月も見よかかる藻汐の小夜枕
 衣にふかきあかつきのつゆ      穆翁

 月に露ということで、小夜枕に衣を濡らすとする。
 八十九句目。

   衣にふかきあかつきのつゆ
 帰るさの身もひややかに風吹きて   尹盛

 暁の露と来れば、後朝(きぬぎぬ)で恋に展開する。
 九十句目。

   帰るさの身もひややかに風吹きて
 わすれぬ思ひ心にぞしむ       宗祇

 「風吹きて」を「心にぞしむ」で受ける。
 九十一句目。

   わすれぬ思ひ心にぞしむ
 俤になりてや花もうかるらん     牧林

 前句の「わすれぬ思ひ」から、花を見てもあの人の面影を思い出しては憂鬱になる、とする。
 九十二句目。

   俤になりてや花もうかるらん
 こずゑかすめるいにしへの里     穆翁

 「いにしへの里」は古都の風情であろう。前句の「俤」はここでは往年の都として栄えた俤になる。

 さざなみや志賀の都はあれにしを
     昔ながらの山桜かな
                平忠度

など、桜に古都の面影を思う。

 名残裏、九十三句目。

   こずゑかすめるいにしへの里
 人も無き垣根に鳥の囀りて      尹盛

 いにしへの里には住む人のない廃墟があり、そこには鳥が囀る。
 杜甫の「春望」の「別れを恨んで 鳥にも心を驚かす」の心であろう。
 九十四句目。

   人も無き垣根に鳥の囀りて
 夕日かすかにのこる道のべ      牧林

 前句の「人も無き」を夕暮れで歩く人もいない道とする。
 後の芭蕉の、

 この道や行く人なしに秋の暮れ    芭蕉

の句を彷彿させる。
 九十五句目。

   夕日かすかにのこる道のべ
 入る山をさそひて鐘やひびくらん   穆翁

 夕日に入相の鐘となれば諸行無常の響きもあって、出家を誘われているかのようだ。
 九十六句目。

   入る山をさそひて鐘やひびくらん
 御たけはるけきみよし野の奥     宗祇

 吉野金峰山は「かねのみたけ」とも呼ばれている。前句を吉野金剛峯寺の鐘とする。
 九十七句目。

   御たけはるけきみよし野の奥
 出ぬべき仏にも身はよもあはじ    尹盛

 金峯山寺本堂(蔵王堂)の本の蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊を合わせたものとされている。「出でぬべき仏」はその釈迦入滅後五十六億七千万年後に出づるとされる弥勒菩薩のことで、そんな遠い未来のことなら会うことはできない、今は蔵王権現に祈ることにしよう、とする。
 九十八句目。

   出ぬべき仏にも身はよもあはじ
 たのまば心ふかくあはれめ      牧林

 弥勒は遠い未来にならないと現れないが、それでもそれを頼りにする心はそれだけ深く悲しいものだ。
 九十九句目。

   たのまば心ふかくあはれめ
 別ては誰先だたむけふの友      宗祇

 今日の友も、いつかは誰かから順番に亡くなって行くことになる。残されたならどうか憐れんでくれ。
 ここで連歌を楽しんだ横岡の連衆ともこれでお別れで、もう会えないかもしれないという思いがあったのだろう。応仁の乱で戦国の世となった今、そうでなくても人間いつ死ぬかわからない。
「誰」とはいうものの、宗祇自身が私が死んだら、という意味を込めていたのではないかと思う。
 挙句。

   別ては誰先だたむけふの友
 契りはかなや道芝の露        穆翁

 約束しても、いつかは旅の露となって果たされないかもしれない、それはわかっています。
 連歌の挙句は習慣上目出度く収めることが多いが、ここでは離別の情で終わらせる。

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