オミクロン株は病院で治療が必要になる人の割合が推定値で30%から70%くらい少ないというのが、BBCの報道にあった。これは大方予想されてたことだろう。
あとはもう一つの懸念で、率は少なくても感染者数が多ければ医療機関を圧迫するというものだ。夏の第五波の1.5倍の感染者が出れば日本も危ない。一日四万人を越えたらアウトかもしれない。
ただ、最初の南アフリカがすでにピークアウトしているようだし、危機感が高まればどこの国でも自発的に行動を抑制するだろうから、それほど心配することはない。反ワクや差別ガーのデマに惑わされないことが大事だ。
日本は他所の国に比べて危機感の沸点が低いから安心していい。
それでは「飽やことし」の巻の続き。
十三句目。
士峯の雲を望む加賀殿
杣めして國に千曳の鏡刻 李下
杣を召すのだから、このばあいは杣木を伐り出す人のことであろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「杣」の解説」に、
「林木の茂る山、木材採取の山の意から転じて、伐木作業、さらには伐採、造材に働く「杣人(そまびと)」の名称ともなった。古代文献にみえる「杣」はおもに寺社・宮殿の用材伐採地で(玉滝杣、田上杣、甲賀杣など)、のちにそれらは伐採従事の農民を含めた一種の荘園(しょうえん)ともなっていった。しかし中世以後は杣人(木こり)の意に多く用いられて造材職人の主体とみられ、運材夫(日用(ひよう))、造材夫(木挽(こびき))に対し、伐採職人をおもにさすようになる。この三者の分業はすでに近世初期には一般化していた。大山林の伐採にあたる「杣夫(そまふ)」は、杣頭(そまがしら)(庄屋(しょうや))に統率された作業組をつくり、帳付(副頭)、小杣(欠損木の補修)、炊夫(かしき)などの特殊働きを含めて厳しい規律の仕組みをつくりあげ、山中に久しく独自の集団生活を営んできた。各自独自の「木印(きじるし)」を設定して、伐木の識別に資し、伐採作業は個別ながらも、集団の厳しい規律に従って作業にあたった。また杣人同士には種々特異な仲間規律もあって、農民とは別趣の労働生活を山中に展開してきた。それゆえ杣人にはまた特殊な山の神信仰もあり、特異の禁忌伝承もあった。しかし、今日そのおもかげはほとんど消失した。[竹内利美]」
ウィキペディアの「奥山廻り」の項を見ると、
「奥山廻り(おくやままわり)とは加賀藩が立山と白山の奥山での国境警備と、杉、欅、檜など重要な樹木7種(七木)の保全の為に組織した見分役である。これは十村分役の一つである山廻り役への加役または兼役として命じられたもので、独立した役名ではなく職名であり奥山廻り御用とも呼ばれる。」
とある。さらに、
「奥山廻りの実施は登山期の6月から8月に、通常は上奥山と下奥山で隔年に行われた。この実施者としては御用番から奥山廻り御用を申し渡された横目が派遣する横目足軽を選び、この横目足軽2名と御算用場から通達を受けた郡奉行から、奥山廻りあるいは奥山廻り加役として山廻り足軽数名とその年の山廻り役2名から4名があてられ、これに杣人足が10名程度加えられた。もちろん人数は随時変えられていて最初期には全体で数名程度だったものが、盗伐事件が続発するようになると杣人足が30人にもなり総勢40名にもなることがあった。」
とあり、杣人が召された。
「刻」には「ワリ」とルビがある。鏡刻(かがみわり)は鏡開きのこと。
前句の士峯の雲を鏡餅に見立て、加賀藩の鏡割(鏡開き)は富士山にかかるあの巨大な雲の餅を杣工千人で引っ張って行われる、とした。
富士山に掛る笠雲は鏡餅に見えなくもない。
十四句目。
杣めして國に千曳の鏡刻
名にたつかざし黒木串柿 其角
串柿は串に刺して干した柿で、正月の鏡餅に飾る。今はあまりやらなくなったが、昔ながらに飾り付ける家もある。
前句の鏡割に、杣だから黒木の櫛に柿を刺すとした。黒木は炭にする前の乾燥させた木をいう。
十五句目。
名にたつかざし黒木串柿
髭あらの花みる男内ゆかし 李下
髭を生やした荒くれ男だが、花見の時には黒木と串柿の簪をしてお洒落をしている。
髭というと奴さんのイメージがあるが中間(ちゅうげん)には多かったのだろうか。
髭は牢人の無精髭のイメージもあったし盗賊のイメージもあったのは西鶴の『西鶴諸国ばなし』の「蚤の籠抜け」にも見られる。こここでは紺屋に押し入った夜盗が「皆、髭男の大小を指してまゐった」とされ、津河隼人という牢人が誤認逮捕されるが、これも牢人=髭というのが、言わずもがなだったのだろう。
芭蕉さんも絵に描く時には無精髭が描かれたりする。旅人には多かったのだろう。
『源氏物語』の髭黒が一応の出典であろう。ただ、物語には即してないので本説とは言い難い。天和の頃の現代設定として読んでいいだろう。
十六句目。
髭あらの花みる男内ゆかし
春ン-宵 君とはりあひのなさ 其角
「ン」は小さな文字で表記されている。「はる」ではなく「しゅん」と読むという意味。
まあ、突っ張ったちょい悪の所に惹かれたのに、花見の席で急にしおらしくされると拍子抜けになる。
十七句目。
春ン-宵 君とはりあひのなさ
月に鳴ク生憎のうかれ上戸や 李下
生憎は(アナニク)とルビがある。五七五ではなく五八四になっている。
酒を飲むと性格が変わる人はよくいる。陽キャになるのはいいが、あまり軽々しいのも、というところか。
「鳴ク」は泣くというよりも、この場合は歌い出すという意味か。
十八句目。
月に鳴ク生憎のうかれ上戸や
薄も白くたぶさ刈る鎌 其角
「たぶさ」は髻(もとどり)で、これを切ったら出家ということか。
前句のうかれ上戸を遊行上戸として、月に鳴いては旅の虫がうずき出す。ススキのように白髪になった髪をばっさり切って、急に旅に出てしまう。
二表、十九句目。
薄も白くたぶさ刈る鎌
朝顔は道哥の種をうへたらん 李下
道歌は道徳や教訓を詠んだ和歌のことで、ウィキペディアには例として、
我が恩を仇にて返す人あらば
又その上に慈悲を施せ
伝真阿上人
濃茶には湯加減あつく服は尚ほ
泡なきやうにかたまりもなく
利休道歌
を引いている。
朝顔は朝咲いて昼には凋むあたりが、如何にも人生の短さを語るのにちょうどいい。
朝顔を見て出家を思い立った人は、そのうち道歌を詠むようになるんだろうな。
ニ十句目。
朝顔は道哥の種をうへたらん
院の後家のあるかなき宿 李下
「院」には「オリヰ」とルビがふってある。
「おりゐのみかど」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、「下り居の帝」、「退位した天皇。太上(だいじよう)天皇。」とある。ただ、それは元の意味で、「おりゐ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 下に降りていること。車、馬などから降りていること。また、腰を降ろしていること。
※光悦本謡曲・熊野(1505頃)「車宿り、馬とどめ、爰より花車、おりゐの衣はりまがた」
② 天皇、斎院などがその地位を譲ること。退位。→おりいの帝(みかど)。〔名語記(1275)〕
③ (宮仕えの女房の)里下がり。
※俳諧・落日庵句集(1780頃か)「風声の下り居の君や遅桜」
とある。
前句の「朝顔」から『源氏物語』朝顔巻の女五宮の宿をイメージしたか。本説の場合出典と少し変えるから、「院の後家」でもいい。
二十一句目。
院の後家のあるかなき宿
都近き島原小野をおもひ出る 其角
島原は今の下京区で西本願寺に近いが、かつては京の市街地のはずれだった。小野は山科にあるが、ここでは島原のあたりの一般名詞としての小野であろう。
前句を引退した遊女として、島原を懐かしく思う。
二十二句目。
都近き島原小野をおもひ出る
仕組をくだす八重のとぢ文 李下
とぢ文は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「封じ文」とある。八重というからには正確に八枚ということではなくても、何枚もの紙に書いた長い文という意味だろう。
島原の遊女に向けて長い手紙を書く男がいたのだろう。仮名草子の『恨之介』は家老木村常陸の忘れ形見の雪の前に長い手紙を書いているが、そんなイメージか。
当時の遊郭は王朝時代の疑似恋愛を楽しむ所で、いきなり金払ってやらせてもらうような近代の売春窟とは違っていた。むしろ今の感覚なら出会い系に近いかもしれない。遊女に気に入られないと会ってもくれないから、恋文にもいろいろと仕組みを凝らす。
二十三句目。
仕組をくだす八重のとぢ文
墨染に女房ふたりを頼む哉 其角
墨染の衣の僧に長い秘密の手紙を書いて、二人の女房をどうするか相談する。正室と側室のある身での出家で、後のことが気がかりなのだろう。
二十四句目。
墨染に女房ふたりを頼む哉
ねみだれかもじ虵と成夢 李下
お坊さんで妻帯はまだしも、側室までとは。そりゃ嫉妬もするし、夢には安珍・清姫伝説のように、嫉妬に燃える蛇の姿になった女が現れる。
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