今年一年を表す漢字は「金」ということで、まあ二〇一二年、二〇一六年と続いて、大体オリンピックの年は「金」というのが定着したかな。
コロナが収まってしまうと、オリンピックの時のあの罵詈雑言はどこへ行ったかという感じで、今はすっかり静かになっている。
終わってみれば日本は何もない平和な一年で、オリパラ選手と大谷選手の活躍の目立っただけの年だったんだな。
前澤さんも宇宙に行き、アニメの「月とライカと吸血姫」のレフも無事に宇宙へ行った。地球はガガーリンの頃と変わらず丸くて青いようだ。
すべての人類を乗せているこの船は、物理的に大きくなったわけではない。大きさは変わっていない。ただ生産性が向上したから定員が増えただけだ。
この狭い地球でみんなが争わずに生きていくには、生産性を更に向上させるか、子供の数を減らすかしかない。他の解決策はない。分不相応な望みを抱くなら、再び人類は虐殺を繰り返すことになる。
更なる経済成長を推し進め、労働力の不足はロボットとAIで補う。今はそれしかない。
それでは「東路の津登」の続き。
「佐野といふ所へうつり行。此所は万葉集にさの田の稲と読り。ふな橋此あたりや。爰に五日ばかりあり。小児の連歌するあり。宿の主じ山上筑前守興行。
今朝よりや葉さへうつらふ萩の花
ただ下葉うつらふとや侍らむ。佐野小太郎の亭にして、
朝露はさりげなき夜の野分かな」(「東路の津登」太田本)
「さの田の稲」は、
上つ毛の佐野田の苗のむら苗に
事は定めつ今はいかにせも(万葉集巻十四、三四一八)
の歌のことか。
佐野の船橋は、
上つ毛の佐野の舟橋取り離し
親はさくれど我は離るがへ(万葉集巻十四、三四二〇)
の歌に詠まれていて、謡曲『船橋』のもなっている。今は高崎市の上佐野町にあったとされている。
「小児の連歌するあり」は彰考館本には「小児乙丸連歌器量なるあり」とある。子供でも連歌の上手な人がいたようだ。「音丸」としている本もある。
山上筑前守の所に五日滞在し、連歌興行の発句に、
今朝よりや葉さへうつらふ萩の花 宗長
の句を詠んでいる。「うつらふ」は葉が色づくことであろう。萩の葉も黄色くなる。花も哀れだが、下葉が色づくのも哀れと、「ただ下葉うつらふ」とそこに目を付けた句だとしている。
佐野小太郎の亭で、
朝露はさりげなき夜の野分かな 宗長
の句を詠む。足利で吹いていた風はやはり野分の風だったようだ。
「さりげなし」は今日の意味と同じだが、ここでは「去りげなし」と掛けて、なかなか去って行かない野分という意味でも用いている。
「その夜野分してあした成べし。同越前守見参有てはいばいしかりしこと共なり。
兼載此所より坂東路五十里ばかり隔りて、古河といふ所に所労の事あり。江春庵とて関東の名医その方にて養性あり。文などして申つかはし侍り。中風にて手ふるひ身もあからずとぞ。
是より壬生といふ所へ横手刑部少輔成世相伴なはれて連歌あり。小児執筆する也。
木末のみ村だつ霧のあしたかな
此あしたの眺望ばかり也。」(「東路の津登」太田本)
「はいばいし」は他本では「はへばへし」になっているが、意味はよくわからない。「延(はへ)る」から来た言葉か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「延」の解説」に、
「〘他ア下一(ハ下一)〙 は・ふ 〘他ハ下二〙 (「はう」に対応する他動詞形)
① 糸・紐(ひも)・綱や、布・袖などを長く引きのばす。のばしひろげる。長くはわせる。
※万葉(8C後)五・八九四「墨縄を 播倍(ハヘ)たる如く」
② 転じて、心情、ことばなどを相手に届くようにする。心をよせる。ことばをかける。
※古事記(712)中・歌謡「蓴(ぬなは)繰り 波閇(ハヘ)けく知らに 我が心しぞ いや愚(をこ)にして 今ぞ悔しき」
③ 数を順次ふやす。
※浄瑠璃・吉野忠信(1697頃)三「数へて見ればこはいかに十といひつつ四つはへて」
[補注]室町時代頃からヤ行にも活用した。→はゆ(延)」
とある。②だとすると互いにしみじみと語り合った、という意味であろう。
兼載が古河で療養していると聞いて、文を人に托す。『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)によれば、前年の永正五年(一五〇八年)に芦野の庵を引き払って古河に移り、永正六年には病中夏日百句や「閑草」を著作したという。翌年永正七年六月六日にこの世を去る。
足利から佐野を経て壬生に至る道は、概ね古代東山道に沿っている。今の壬生市街地の南西、東武線野州大塚駅の近くに室の八島として知られている大神神社がある。その南に下野国庁跡がある。古代東山道はこの辺りを通っていたのだろう。東には天平の丘公園がある。
佐野から横手刑部少輔成世と乙丸(音丸)が同行し連歌会が興行される。乙丸が主筆を務める。発句は、
木末のみ村だつ霧のあしたかな 宗長
朝霧が地面を覆う中、木のてっぺんの方だけが霧の上に覗いて見える。それがあちこちに見える、この辺の平野の情景であろう。畠の中に杉林や雑木林が点在していたのだろう。その中には大神神社の森もあったか。
「むろの八嶋ちかきほどなれば、亭主中務少輔綱房、これかれ伴ひて見にまかりたり。まことにうち見るよりさびしく哀に、折しも秋なり。いはんかたなくて、
朝霧やむろの八しまの夕煙
夕のけぶり今朝のあさ霧にやと覚へ侍るばかり也。猶哀にたえずして、
あづまぢのむろの八しまの秋の色
それともわかぬ夕けぶりかな
人々にもあまたありしとなり。」(「東路の津登」太田本)
壬生に来たなら、当然室の八島を尋ねないわけにはいかないだろう。そこで一句、
朝霧やむろの八しまの夕煙 宗長
室の八島といえば、
風吹けば室の八島のゆふけぶり
心の空に立ちにけるかな
藤原顕方(千載集)
暮るる夜は衛士のたく火をそれと見よ
室の八島も都ならねば
藤原定家(新勅撰集)
など、夕暮れの煙が詠まれている。
おそらくもっと古い時代には、この辺りは低湿地帯で、大きな池やそこに浮かぶ島が独特な景観を織り成していて、そこでは温泉が湧き出ていたのか、それとも温度差のある水が流れ込んでいたのか、とにかく八つの島がいつも煙で包まれていたのだろう。
時代が下ると伝承だけが残り、実際には煙はなく、「心の空に」だとか「衛士のたく火をそれと見よ」になったのだろう。
宗長もその幻の煙を思い、朝霧を煙に見立てての吟になる。
あづまぢのむろの八しまの秋の色
それともわかぬ夕けぶりかな
宗長法師
この和歌の方も「それともわかぬ」と幻の夕煙を思うことになる。
歌枕での詠は古歌に敬意を表し、「煙なんかないじゃないか」みたいな詠み方はしない。ただ、「心の中に煙が見えますよ」とするのが礼儀というものであろう。
後に芭蕉も、
糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉
と陽炎をいにしえの煙に見立てて詠んでいる。
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