2021年12月4日土曜日

 今日は城山湖へ行った。前に行った津久井城山の隣のような所で、津久井湖とは別にダムがあって小さな湖がある。
 紅葉もいい具合で、ダムの向こう側の草戸山に登り、三沢峠から峯の薬師まで行き、そこから引き返してダムの方に戻った。関東平野の眺望が良かった。

 それでは「白河紀行」の続き。

 「それより又、黒川と云ふ河を見侍れば、中川よりは少しのどかなるに、落ち合ひたる谷水に紅葉ながれをせき、青苔道をとぢ、名もしらぬ鳥など声ちかき程に、世のうきよりはと思ふのみぞなぐさむ心地し侍るに、はるけき林のおくに、山姫も此の一本や心とどめけんと、いろふかくみゆるを、興に乗じてほどなく横岡といふ所に来れる。」

 那珂川を渡ると、道は黒川に沿って進む。川幅も細くなり、いかにも山の奥に来たという感じになる。
 山姫は山に住む美女の姿をした妖怪で、連歌では「非人倫」になる。今でいう人外。
 その先にある横岡は伊王野から白河関跡へ行く道筋ではなく、芦野を通る近世奥州街道の道になる。芦野といえば、これより少し後の永正二年(一五〇五年)になるが、猪苗代兼載がここで暮らすことになる。
 なお、『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)によれば、応仁二年に兼載は品川の心敬の草庵を尋ねて師事したとあるから、この時既に宗祇との面識があったかもしれない。兼載十七歳の時のことである。
 芦野には芭蕉が訪れた西行柳があるが、ここではその記述はない。江戸時代に作られた名所だったか。
 横岡はその芦野の少し北になる。

 「ここも里の長にたのみてやどりとし、それよりのりものの用意して、白川の関にいたれる道のほど、谷の小河、峯の松かぜなど、何となく常よりは哀れふかく侍るに、このもかのも梢むらむら落ばして、山賤に栖もあらはに、麓の沢には、霜がれのあし下折れて、さをしかの妻とはん岡べの田面を守る人絶えて、かたぶきたる庵に引板のかけ縄朽ち残りたるは、音するよりはさびしさ増りて、人々語らひ行くに、おくふかき方よりことにいろこくみゆるを、あれこそ関の梢にて侍れと、しるべのものをしへ侍るに、心空にて、駒の足をはやめいそぐに、関にいたりては、中々言のはにのべがたし。」

 白河の関へは乗物で行ったのだから、狭い山道ではなくきちんとした街道だったのではないかと思う。この場合の乗物が馬だというのは、そのあと「駒の足をはやめ」とあるのでわかる。
 ただ、問題はどこを白河の関としたかだ。今の白河関跡なら、おそらく伊王野に一度引き返して、そこから旧東山道を行ったと思われる。
 今は一応、芭蕉や曾良も訪ねて行った白河関跡が白河の関だとされている。ただ、未だに諸説ある。当時はどこが白河の関だと考えられていたのか、そこが問題だ。
 ただ、奥州街道の境の明神は、芭蕉の時代でもここが本当の白河関だという認識がなく、わざわざ探しに行ったとしたら、まだ奥州街道が整備される前の宗祇の時代には、ここがそうだという認識はなかったのではないかと思う。とすれば、やはり伊王野に一度引き返したと考えた方が良い。

 「只二所明神のかみさびたるに、一方はいかにもきらびやかに、社頭神殿も神々しく侍るに、今一かたは、(坐)ふりはてて、苔を軒端とし、紅葉を垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめがたきに、兼盛・能因ここにのぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり侍らんも中々なれど、みな思ひ余りて、」

 関の梢と教えられたところにあったのは二所明神だった。奥州街道の境の明神ではなく、東山道の追分の明神の方であろう。今日では峠の南側の方しか残っていないが、この頃も一方はきらびやかだが、一方が荒れ果てていた。
 これだと今の白河関跡までは行かず、その手前の追分の明神が白河関だという認識だったようだ。
 なお、この追分の明神の方は、曾良の『旅日記』に、

 「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。」

とある。方角の間違いで、実際は南にある。
 同じ曾良の『旅日記』に、

 「○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。 」

とある。○がついているのは聞いた話としてメモしたものだろう。ここに参詣したことを以てして白河の関へ行ったというのであれば、芭蕉と曾良もひょっとしたら今の白河関跡は知らずに通り過ぎていたのかもしれない。
 桃隣は、那須温泉神社から別ルートで白河に入り、そこから関山の成就山滿願寺へ行って、ここが白河関だと思っていたようだ。
 つまり宗祇もそうだし、芭蕉と曾良も結局同じ追分の明神への到達を以てして、白河の関についにやって来たと思ったということだ。だとすると、今の白河関跡って‥‥。
 ウィキペディアによると、

 「関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。
 1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。」

だという。これなら確かに宗祇も芭蕉も知らないわけだ。
 さて、当時の人はこの追分の明神を以てして白河の関に辿り着いたと考えていた以上、ここで感慨に浸り、歌を詠んだのは何らおかしいことではない。

 「みな思ひ余りて、

 都出し霞も風もけふみれば
     跡無き空の夢に時雨れて
               宗祇
 行く末の名をばたのまず心をや
     世々にとどめん白川の関

 平尹盛、これも都の朋友にて、ここに伴ふも一しほ哀れふかきにや。

 思ふとも君し越えずば白川の
     関吹く風やよそにきかまし
 尋ねこし昔の人の心をも
     今白川の関の秋かぜ
               穆翁
 木枯も都のひとのつとにとや
     紅葉を残す白川のせき
               牧林

 此の両人は坂東の人なるが、みな此の道に心をよする人にて、したひ来たれるなるべし。かくて夕月夜のおもしろきを伴ひて、横岡の宿に帰る程、作りあはせたるやうのゆふべなるべし。」

 宗祇の和歌、

 都出し霞も風もけふみれば
     跡無き空の夢に時雨れて
               宗祇

は、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
               能因法師(後拾遺集)

を本歌としているのは明白だ。実際に宗祇が京の都を離れ東国に下ったのは春だったのだろう。
 あれから二年半たって、ついに白河の関にまで来た。その間には二回の秋風を聞いた。「跡無き空の夢」という所には、もう二度と都には戻れないかもしれないという思いがあったのだろう。
 もう一首、

 行く末の名をばたのまず心をや
     世々にとどめん白川の関
               宗祇

 能因法師のように後の世まで名を残すことはないだろう。ただ今日の感慨は自分の心の中に留めておこう。そこには和歌は二条家・冷泉家などの血筋に独占されていて、身分の低い者は勅撰集などに名を連ねることはない、という嘆きがあった。
 この思いは後の文明十二年(一四八〇年)の『筑紫道記』「うつら浜」でも吐露している。

 「松原遠くつらなりて、箱崎にもいかでおとり侍らむなどみゆるはたぐひなけれど、名所ならねばしひて心とまらず。やまとことのはの道も、その家の人、又は大家などにあらずばかひなかるべし。」

 宗祇は文明三年(一四七一年)に東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受ける。それでも、及ばないという意識があったのは、身分の問題だったか。
 それだけでなく、永享十一年(一四三九年)成立の『新続古今和歌集』を最後に勅撰集そのものが途絶えてしまっていた。
 そんな宗祇にとって、明応四年(一四九五年)に自ら編纂に係わった『新撰菟玖波集』が勅撰集に準じるものとなったことが、生涯の一番の栄光だった。

  思ふとも君し越えずば白川の
     関吹く風やよそにきかまし
               平尹盛

 この人についてはよくわかっていないようだ。同じ都にいた人というこどだけはわかっている。宗祇をここまで送ってこれて、今白河の関の風の音を聞かせることができたのが嬉しい、という歌で、宗祇の和歌の才能を評価してのことだろう。

 尋ねこし昔の人の心をも
     今白川の関の秋かぜ
               穆翁

 穆翁も坂東の人だということしかわからない。
 この歌は、能因と並べて記された兼盛の、

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ
     けふ白河の関は越えぬと
               平兼盛(拾遺集)

を踏まえたもので、この心を思い起こして今日白河の関を越えて秋風を聞いた、としている。

 木枯も都のひとのつとにとや
     紅葉を残す白川のせき
               牧林

 牧林も坂東の人という以外によくわからない。尹盛・穆翁・牧林に時宗の僧と思われる句阿を加えて、このあと横岡に戻り、白川百韻の連歌興行をすることになる。句阿はあるいは日光からお供してきた道者か。
 歌の方は、

 都にはまだ青葉にて見しかども
     紅葉散り敷く白河の関
               源頼政(千載和歌集)

の歌を踏まえている。能因の歌によく似ているが、「紅葉散り敷く」という所に能因の歌にない華やかさがある。
 白河の関にやって来たが、今はまだ紅葉が残っているので、これを吹き散らす木枯らしの方は都へのお土産にしましょう、と詠む。

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