2023年6月10日土曜日

 水着撮影会に日本共産党がクレームを入れて中止に追い込んだというのは、社会主義の問題だけでなく、人権思想が何なのか、考えるきっかえになればいいと思う。
 問題は二つある。

 一つは「性の商品化」という言葉で、一体何を言おうとしているか。
 もう一つは女性が女性であることをアピールする権利はないのか。

 この二つが問題だ。
 前者は労働価値説の問題で、性的魅力は労働によるものではない。
 交換価値は労働価値説によれば労働者が最低限の生活を営むためのその労働時間を基準にして、同時間当たりの生産物の価値を等しいとするものだ。
 交換価値を持つ物は生活に必要な食糧、住居、その他生活必需品に限定され、その生産物の価値はそれを作るのに要する労働時間に等しいというのが労働価値説の基本的な考え方になる。
 食料品の価値はお百姓さんが一年間働いた労働時間によって決定され、鋤や鍬の価値はそれを作るのに要する鍬鍛冶や柄を作る材木屋の労働時間に等しいことになる。
 これに対し芸術品の価値は必ずしも労働時間に関係なく、いくつかの作品は何百億円もの値を付けることになる。スポーツ選手の価値も練習時間や試合時間に関係なく、基本的には試合での活躍によって決定される。
 労働価値に対して原理主義的に解釈するなら、芸術作品はその芸術家の上手い下手に関わらず、そのための修行や制作にかかる時間以上の価値を持ってはいけないことになる、スポーツ選手の価値は練習時間と試合時間によって決定されることになる。
 もちろんそれ以前に芸術やスポーツが生活必需品かどうかということが問題になる。実際に二十世紀の多くの共産圏の国で芸術は禁止され弾圧された。スポーツは国家の宣伝として必要とみなされた場合のみステートアマというのが存在し、そこそこの収入を得ていた。ただ西側のスター選手に比べればほんのささやかなものだった。
 ならばグラビアアイドルの価値はというと、その価値はやはり美容やシェイプアップや撮影の時間に還元されるのだろうか。おそらくそれ以前に、そもそもグラビア写真が生活必需品なのかという問題になる。
 「性の商品化」という言葉は、そもそも性的魅力は「商品」ではない、ということが前提されている。それは生活必需品ではない。ゆえに商品として交換の対象にしてはならない、というのが社会主義の基本になる。
 それに加えて、なぜか男性の性的魅力は問題にならず、女性に関してのみ性的魅力を商品とすることを女性の人権侵害として捉える。
 これは人間は本来男であり、女性は男性によって作られ押し付けられた役割にすぎない、という人権思想が根底にある。まあ、西洋の言語では男を表す言葉が同時に人間を意味している。
 このことから、男女が完全に平等に扱われるようになったなら、だれも女らしい女にはならず、男も女も男のようになるはずだ、ということになる。女らしさは男によって強要されたものだから、グラビアアイドルが女性的な魅力をアピールするのは男による強制であり、彼女らの本意ではない。彼らは強要されいやいや女性を演じさせられ、その心は常に深く傷ついている、というわけだ。
 だから、グラビアアイドルの仕事を奪うことは、女性を本来の女性の在り方に戻す正義だというわけだ。
 このことはしばしばLGBTにも拡大される。つまり本当に正しいLGBTは男らしくふるまうハードゲイのみであり、それ以外の性癖には無関心になる。
 女性の場合は男装をしたり男っぽくふるまったり女性的な服装を拒否する女性たちのみが高く評価される。
 だから、女性アイドルが女性的な水着を着て撮影会する時にはウキキーとなるが、男性アイドルが水着撮影をしても何も言わないし、多分ゲイが水着撮影してもOKだろう。女性が男性水着を着れば拍手喝さいを浴びる。
 巨乳に対するしばしば行われるバッシングも、本来大きな乳房は人間としてあってはならない、大きな乳房は男性によって強要されたものであり、女性が解放されるには自ら乳房を切落す必要がある、なんてのが根底にある。
 まあ、こういったことを書いても人権派の人達は、「あたりまえのことじゃないか」と思うことだろう。
 ある意味この問題が本当に深刻なのは、これが極端な男性中心主義であることに本人たちが気付いてないことだ。
 ただ、希望があるのは、こうした人たちは結局一握りで、何よりも女性の支持を得ていないということだ。
 日本共産党が水着撮影会を中止に追い込んだ時、多くの女性が賛同してNO水着の行動を起こしたり、ネット上でも水着撮影会を許すなとい声が盛り上がることを期待したのだったらご苦労さん。今頃「日本は民度が低いなーー」ってぼやいてるな。「だからこそ日本共産党がもっと声を上げねばならない」てとこかな。

 それでは「去年といはん」の巻の続き。挙句まで。

名残裏

九十三句目

   けぬきはなさぬ袖の秋風
 人はただはたち前後か花薄

 昔は大体十五で元服し、二十歳前後が男盛りになる。女は十五で嫁に行く。
 この場合の花薄は月代の手入れではなく白髪抜きのことか。後の芭蕉の句に、

 白髪ぬく枕の下やきりぎりす  芭蕉

の句がある。
 すっかり白髪頭になって、別の意味で毛抜きが離せなくなり、若かりし頃を思ってあの頃は良かったなと思う。述懐の句と言って良い。
 長点で「冬がれたる身にもうらやましく候」と宗因も毛がふさふさしてた頃を思う。

九十四句目

   人はただはたち前後か花薄
 いたづらぐるひのらのらの露

 二十歳前後は男盛りとはいえ、夜は遊郭に入り浸って、昼はのんべんだらりと無駄に過ごす。「のらのら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「のらのら」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
  ① 動作がにぶいさまを表わす語。のろのろ。
  ※浄瑠璃・傾城吉岡染(1710頃)中「此人立へのらのらと命しらずと云物」
  ② なすこともなく漫然と時間を過ごすさまを表わす語。のらくら。
  ※浄瑠璃・源氏冷泉節(1710頃)下「女房共はのらのらと、どこにのらをかはいてゐる」

とある。
 花薄に露は、

 ほのかにも風はふかなむ花薄
     むすぼほれつつ露にぬるとも
             斎宮女御(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 点なし。

九十五句目

   いたづらぐるひのらのらの露
 夜這には庭もまがきものり越て

 「のら」に「庭もまがきも」は、

 里はあれて人はふりにし宿なれや
     庭もまがきも秋ののらなる
             僧正遍照(古今集)

の縁になる。
 前句の「いたづらぐるひ」を都会の遊郭ではなく田舎の夜這いに転じる。庭も籬も乗り越えて野良の露まみれになる。
 長点だがコメントはない。まあ、分かり易い句で説明の必要もあるまい。

九十六句目

   夜這には庭もまがきものり越て
 かけがねもはや更る閨の戸

 籬を乗り越えたまでは良かったが、扉には鍵が掛かっていて残念。
 点なし。

九十七句目

   かけがねもはや更る閨の戸
 をとがいを水鶏やたたきやまざらん

 「をとがひ」は下あごの突き出た部分を言うが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「頤」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 下あご。あご。⇔腭(あぎ)。
  ※霊異記(810‐824)下「彼の禅師の(オトカヒ)の右の方に大きなる黶(ふすべ)有り〈真福寺本訓釈  ヲトカヒ〉」
  ② (機能上関係が深いところから転じて) 「くち(口)」をいう。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)六「ムウ、ハハハハ、おとがひ明いた任(まか)せに。こなたに知行は貰わぬ」
  ③ (形動) さかんにしゃべること。広言、悪口などをはくこと。また、そのさま。おしゃべり。
  ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)上「返報する、覚へておれと、へらず口にて逃出す。立寄る人々どっと笑ひ、踏まれてもあのおとがひ」

と口だとか喋るという意味もある。
 この場合は「水鶏は頤を叩いて止まざらんや」であろう。水鶏の泣き声は戸を叩く音に似ているというので、水鶏がいつまでもなくように開けろ開けろと戸を叩き続けているという意味であろう。
 ここでは夜這いではなく、通ってきたけどもう逢いたくないと戸の鍵を固く閉ざされてしまって、いくら戸を叩いても開けてくれない、という意味になる。
 長点で「おかほどたたく共あき有まじく候」とある。

九十八句目

   をとがいを水鶏やたたきやまざらん
 さてもさしでた洲崎島さき

 洲崎は何か有名な地名なのかと思ったが、江戸の洲崎はまだこの頃はないので、実在の地名なのかどうかはよくわからない。前句の「をとがい」を顎の方の頤として、突き出たものということで洲崎島崎とつないだのであろう。
 島崎はコトバンクの「デジタル大辞泉 「島崎」の意味・読み・例文・類語」に、

 「島の海に突き出た所。また、築山などの池に突き出た所。
  「やい太郎冠者、あの―に見ゆる木は何ぢゃ」〈虎寛狂・萩大名〉」

とある。
 「さしでた」は今も「差し出がましい」という言葉に残っていて、水鶏の戸を叩くような口ぶりが差し出がましく、顎をとんがらかしているようでそれを洲崎島崎に喩える。
 点なし。

九十九句目

   さてもさしでた洲崎島さき
 きく王や舟に其比花の春

 「きく王」は菊王丸でコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊王丸」の解説」に、

 「1168-1185 平安時代後期の武士。
  仁安(にんあん)3年生まれ。平清盛の甥(おい)平教経(のりつね)につかえる。元暦(げんりゃく)2年2月19日屋島の戦いで,教経の射たおした佐藤継信(つぐのぶ)の首をきろうとしたところ,継信の弟忠信に射殺された。18歳。」

とある。
 謡曲『八島』には、

 「鉢附の板より、引きちぎて、左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官、お馬を汀にうち寄せ給へば、佐藤継信能登殿の矢先にかかつて馬より下に・どうと落つれば、船には菊王も討たれければ、ともにあはれと思しけるか船は沖へ陸は陣に、相引きに引く汐のあとは鬨の声絶えて、磯の波松風ばかりの音寂しくぞなりにける。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.774-775). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 季節は春で、

 「落花枝に帰らず、破鏡二度照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚とて、鬼神魂魄の境界に帰り、われとこの身を苦しめて、修羅の巷に寄り来る波の、浅からざりし、業因かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.776). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。句は「きく王は舟に其比花の春(を散らす)や」の倒置になる。
 前句を八島の景色として菊王は花の春にその命を散らしたとする。
 長点で「其日の形勢此句にあり」とある。合戦の日の情景が浮かんでくるようだ、ということか。

挙句

   きく王や舟に其比花の春
 異国もなびく御代のどか也

 前句の「きく王」を「聞く王」と取り成す。あえて平仮名で表記する時は取り成しがあることが多い。
 聞くところによると異国の王も我が御代になびくと言うではないか。花の春はのどか也と目出度く一巻は終わる。
 点なし。

 「愚墨五十四句
     長廿九
      西幽子判」

 点のあったのは五十四句で、そのうち長点がニ十句。この『大阪独吟集』の中では平均的な点数で、この集の十の百韻はそれほど突出して点の多いものも泣ければ、極端に少ないものもない。
 墨の数は四十八から六十二の間、長点の数は十九から二十九の間に収まっている。

  即興かうもあらふか
 こていうしにからすきかけて、もつてひらく
 作においては、かへすがへすも申ばかりはなか
 りけり

 こう言っては殊に牛に唐鋤かけて以て開く作ににおいては、返す返す言うようなこともない。まあ丑年の歳旦の百韻でこの集の巻頭を飾るのに、申し分のない出来だった、といったところか。

0 件のコメント:

コメントを投稿