それでは「去年といはん」の巻の続き。
初裏
九句目
蘇鉄まじりの浅茅生の宿
日覆も霜よりしもに朽果て
「霜よりしもに」は、
世やは憂き霜よりしもに結び置く
老蘇の森のもとの朽ち葉は
藤原定家(拾遺愚草)
の歌があり、これが本歌になる。
日覆(ひおほひ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日覆」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 日の光をさえぎるおおい。ひよけ。《季・夏》 〔羅葡日辞書(1595)〕
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「日覆も霜よりしもに朽果て 大工つかひや橋のつつくり〈幾音〉」
② 舞台上部の奥につるされた幅二尺(約〇・六メートル)程の渡り廊下の称。現在は鉄製だが以前は簀の子であった。ひよけ。〔随筆・俗耳鼓吹(1788)〕
③ 夏、制帽などの上面をおおう白布。〔風俗画報‐五四号(1893)〕」
とある。夏の日覆いも今では霜に朽ち果てて、朽ち葉のようになっている。
墨点あり。
十句目
日覆も霜よりしもに朽果て
大工つかひや橋のつづくり
「つづくり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「綴」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (動詞「つづくる(綴)」の連用形の名詞化。「つつくり」とも) 修理。修繕。補修。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「日覆(ひおほひ)も霜よりしもに朽果(くちはて)て 大工つかひや橋のつづくり〈幾音〉」
とある。
日覆いも朽ちた荒れ果てた建物だから、橋の部分に大工を入れて修理をしている。
墨点あり。
十一句目
大工つかひや橋のつづくり
昼めしの櫃川さしてはこぶらし
櫃川(ひつかわ)は山科を流れる川で、木幡で宇治川に合流する。当時の山科から大阪方面への物流に用いられていたのだろう。ここでは昼飯のお櫃と掛けているが、枕詞のような用法で、あまり意味はないのだろう。
物流の要衝なので大工を使って橋も修理する。
長点があり、「秀句あたらしく候」とある。
十二句目
昼めしの櫃川さしてはこぶらし
ふしみ竹田も植るただ中
伏見は櫃川の下流になるが、竹田は賀茂川の方の流れになる。節を竹の節に掛けて竹を導き出し、竹田の田から田植のさなか、ということなのだろう。
植えると飢えるを掛けて竹田の田植で櫃川から昼飯を運ぶというのだろうけど、地理的に流石に無理がある。点なし。
十三句目
ふしみ竹田も植るただ中
かり駕籠のねぶりを覚す郭公
貸駕籠の方はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「貸駕籠」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 江戸時代、使用料を取って貸す駕籠。
※俳諧・天満千句(1676)九「かし駕籠や恋の重荷と成ぬらん〈利方〉 二十貫目にあまる俤〈宗因〉」
※浮世草子・椀久一世(1685)下「あたりなる貸駕籠をまねき〈略〉三挺借らんと言ふ」
とある。かり駕籠は借りた貸駕籠であろう。
田植の季節なのでホトトギスの声がする。
伏見のホトトギスは、
あはれにもともに伏見の里にきて
かたらひあかすほとときすかな
藤原俊成(玉葉集)
などの歌がある。
墨点あり。
十四句目
かり駕籠のねぶりを覚す郭公
たばこのけぶりむら雨の雲
寝覚めのたばこの煙の末には村雨の雲が広がる。
ホトトギスに村雨は、
心をぞつくしはてつるほととぎす
ほのめく宵の村雨のそら
藤原長方(千載集)
などの歌に詠まれている。
墨点あり。
十五句目
たばこのけぶりむら雨の雲
槙のはに霧立のぼる高桟敷
「真木の葉に霧立」は、
むらさめの露もまだひぬまきの葉に
霧立のぼる秋の夕暮
寂蓮法師(新古今集)
で村雨にも付く。
芝居を見る人は煙草を吸う人が多かったのだろう。その煙が高桟敷に上って行く。
点なし。煙草の煙を霧に見立てたのだけど、ありきたりと判断されたか。
十六句目
槙のはに霧立のぼる高桟敷
芝居もはてて秋はさびしき
高桟敷から芝居の連想は特に大きな展開はない。「秋はさびしき」は公演最終日の千秋楽は淋しいということを言うのだろうけど、展開不十分の上に特に目新しさもなかったのだろう。
点なし。
十七句目
芝居もはてて秋はさびしき
むしの声かんぜぬ物はなかりけり
「かんぜぬ物はなかりけり」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に、古浄瑠璃常套の言葉とある。
虫の声の淋しさは古歌の時代から言い古されているし、芝居のイメージから抜けていない。
点なし。
十八句目
むしの声かんぜぬ物はなかりけり
かかる名句もあり明の月
「名句もあり」に「有明」を掛けて、前句の「かんぜぬ物はなかりけり」ほどの名句もない、とする。
前句を台詞と取り成しての名句と自賛する展開を評価したのだろう。長点があり「自まんほどに候」とある。
十九句目
かかる名句もあり明の月
臨終にうち向ひぬる西の空
西へ行く月は西方浄土へ向かうということで臨終に喩えられる。
西へ行く月をやよそにおもふらん
心にいらぬ人のためには
西行法師(山家集)
の歌に詠まれている。
ここでは前句の「かかる名句も」が生きていない。
点なし。
ニ十句目
臨終にうち向ひぬる西の空
そこのき給へ人々いづれも
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『忠度』の、
「六弥太が郎等、御後より立ち廻り、上にまします忠度の、右の腕を打ち落せば、左の御手にて六弥太を取つて投げのけ今は叶はじと思し召して、そこのき給へ人人よ西拝まんと宣ひて、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひしに、」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.819). Yamatouta e books. Kindle 版. )
を引いている。謡曲の言葉を用いた本説だが、オリジナルをそのまんま用いている。何か新味があれば長点だっただろうか。
点あり。
二十一句目
そこのき給へ人々いづれも
花をふんで勿体なしや御神木
御神木の落花ならそれもまた有り難いことで、踏んずけたりしては勿体ない、そこのき給えと付く。
長点があり、「さりとては/\」とある。
二十二句目
花をふんで勿体なしや御神木
梅の立枝にこく鳥のふん
前句の花を梅の花として、そこに留まる鳥が糞をして、勿体なしやと付く。
点あり。
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