2023年6月25日日曜日

 プリゴジンは結局クーデターを起こすぞと言って脅しておいて、ワグネルの撤収を認めさせるのが狙いだったのかな。
 思えば明智光秀も本能寺を焼き討ちせずに取り囲むだけにして、信長と直接交渉で領地の没収や備前備中攻めのことなどで取引していたら、また違った歴史があったのかもしれない。

 それではツイッターの奥の細道。

五月八日

今日は旧暦5月7日で、元禄2年は5月8日。奥の細道。

昨日の夜から雨が降ってきて、今朝もまだ雨が残ってたが、だんだんと晴れてきて、何とか午前中に出発することが出来た。この辺りは本当に道が悪い。
大手門に通じる道を逆に行くと奥州街道に出る、この交差点を芭蕉が辻というらしい。

仙台を出て北東へ行くほぼ真っ直ぐな道を行くと、岩切という所に冠川という川があって冠川土橋を渡った。東光寺があって、その先の岩切新田の裏に十符の菅菰が垣根のように植えられていた。

夫木抄の詠み人知らずの歌に、

みちのくの十符の菅菰七符には
   君を寝させて三符に我が寝む

の歌があった。今も栽培されてるのが嬉しい。

十符の菅を見た後土橋に戻り、それから東へしばらく行って、多賀城跡の壺の碑を見た。
西行法師が、

みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる
   壺の碑そとの浜風

と詠んだ壺の碑が最近になって土の中から出てきたということだ。

これを見ることが出来たのは奇跡としか思えない。はるばる長い旅をしてきた甲斐もあった。
所々判別できないところもあるが、天平寶字六年の銘、とにかく有り難い。

壺の碑を見た後、また土橋に戻り、元の街道で塩竈に出た。
まだ日も高く、湯漬け飯を食ってから周辺の名所を見て回った。
まずは南の方へ行き、末の松山に行った。
古今集読人不知の、

君をおきてあだし心をわがもたば
  末の松山波もこえなむ

また、清原元輔の、

契りきなかたみに袖をしぼりつつ
  末の松山波越さじとは

絶対ないことの喩えだった末の松山も、恋に絶対はない。悲しいことだ。後には恨みだけが残り、やがて命は尽きて、何百年もの歳月を経て行く。

興井は末の松山の南の麓にあった。
岩があってそれを囲むように池があり、今は井戸になっているが、かつては沖の石だったという。

わが袖は汐干に見えぬ沖の石の
   人こそしらね乾くまもなし

の二条院讃岐の頃の面影もない。

野田の玉川は塩竈に戻る途中の小川で、西行法師が、

踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて
   人も通わぬおもわくの橋

と詠んでいる。
東に見える小高い岡が浮島だという。
塩竈に戻り、地名の由来の塩竈を見た。幅五尺はあるかという大きな釜が四つあって、今では使われていない。

日も暮れてきたので塩竈明神は明日にして、その裏にある本地の法蓮寺門前の宿坊に泊まることにした。お寺だけあって、銭湯があった。
明日はいよいよ松島だ。

五月九日

今日は旧暦5月8日で、元禄2年は5月9日。奥の細道。

今日は雲一つない良い天気で、絶好の松島日和だ。
明るくなってから塩竈明神に参拝した。曾良はここの明神様のことをいろいろ詮索してた。神様にもいろいろあってややこしそうだ

塩竈明神の参拝を終えてから船で千賀ノ浦へ出ると、すぐ左に籬島という小さな島があった。古今集読人不知の、

わが背子をみやこにやりて塩竈の
   まがきの島の松ぞ恋しき

の歌に詠まれた所だ。

そのまま行くとやはり左側に幾つか島が連なって、その先端が都島というらしい。
伊勢物語の、

おきのゐて身を焼くよりも悲しきは
   都島への別れなりけり

はここなのか。興井は昨日行ったが。

右側の方にも遠く島が連なり、全体が広い入江になっている。
船は小さな島を伝うように真っ直ぐ進むと、やがて左に曲がり、正面に瑞巌寺が見えてきた。左に雄島、右に福浦島を見ながら、昼には松島の港に着いた。

午後からは瑞巌寺へ行き、そのあと雄島へ行った。橋があって地続きになっていて雲居禅師の座禅堂や石碑があった。
松島に戻ると八幡神社と海に突き出た瑞巌寺の五大堂へ行った。久之助の宿に泊まる。

宿で素堂のくれた詩を読んだ。

夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未同
夏の初めの松島は自ずと清く奥深く、
雲の上のホトトギスの声はまだ揃わない。

曾良も横にいて、今日はホトトギスが鳴いてたなと、何か考えてるようだ。

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