2023年6月12日月曜日

 最近はDS(ディープステート)という言葉が左翼の側からも出てくるようになってきている。それと元々左翼の言葉だったグローバリズムという言葉を右翼が「グローバリスト」という形で使いだしている。
 ロシアが敗色濃厚で、そうなると中国の影響力も低下し、いわゆる第二の冷戦と言われた時代が終わる可能性が出て来た。グローバル市場経済に反発するアンチな連中が右左の垣根を越えて再編されようとしてるのかもしれない。
 彼らが一致できるのは反SDGsではないかと思うが、左翼が一転して反LGBTに回る可能性もなくはない。昔の社会主義者はLGBTを資本主義の頽廃した文化と捉えていて、社会主義になるとLGBTはいなくなると考えていた。だから可能性はある。
 グローバル市場経済の基本は科学と経済は共通言語だというところにある。それに反しない限り文化の多様性は担保される。だからそれに対するアンチは必然的に反科学、反経済になる。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の続き。

四月二十日

今日は旧暦4月19日で、元禄2年は4月20日。奥の細道。

今朝は霧がかかって何も見えなかったが、朝の内に晴れて来た。湯本を出て奥州街道の芦野宿に向かう。
再び那須の篠原で見通しのきかない道を行き、奥州街道の越堀宿と芦野宿の中間あたりに出て、そこからは奥州街道になった。

芦野宿を過ぎるて少し行ったところに松本市兵衛の茶屋があって、主人の案内のままに左の方に曲がると鏡山の八幡様の参道で、大きな門があって、その先左に遊行柳があった。

田一枚植て立去る柳かな 芭蕉

ここに西行ゆかりの柳があると以前からここの旗本の蘆野民部に言われてた。

道の辺に清水流るる柳陰
   しばしとてこそ立ち止まりつれ

の歌の「しばし」を俳諧らしく、田一枚植え終わるまでとしてみた。

紹巴の息子の玄仍の庵というのもこの近くにあった。芦野は宗祇法師も白河の旅の時にここに立ち寄って地元の連衆と百韻を巻き、猪苗代兼載もここに滞在してたという、連歌の聖地でもある。

芦野宿からさらに北へ向い、このまま奥州街道で白河の関を越えるんだと思ってたら、曾良が昔の関はここじゃないと言い出す。
寄居という所からも行けるらしいが、取り合えず普通に今の白河の関を越えようと真っすぐ行った。
今は関所があるわけではなく、関の明神と呼ばれる二つの神社が下総側と磐城側にあった。

結局やはり昔の関が見たいと曾良が聞かないんで、白坂という所で馬を降りてその先で右に曲がり、草深い道を行くことになった。
なるほど確かに旗宿という所に出て、古い街道が通っていた。曾良曰く、これが古代の東山道だという。
その日は雲行が悪く、取り合えず旗宿に泊った。夕方から雨が降り始めた。


四月二十一日

今日は旧暦4月20日で、元禄2年は4月21日。奥の細道。

昨日の雨が止まず、朝から霧雨だった。明るくなってから宿を出て白河とは反対の方に東山道を行くと、ここにも住吉・玉嶋の二つの明神様があった。ここが昔の関のあった所だという。

早苗にもわがいろ黒き日数哉 芭蕉

能因法師もここを通ったのか、

都をば霞とともに立ちしかど
   秋風ぞ吹く白河の関

の歌を思い出した。
一説には能因法師が実は白河へは行ってなく、体を日に焼いて旅をしたように見せたって言われてるが、自分は日焼けして本当に関を越える。

西か東か先早苗にも風の音 芭蕉

まあ、曾良に西東に連れまわされたからな。

このあと関山満願寺を参拝し白河に出た。曾良が中町左五左衛門に用があるということで立ち寄り、大野半治という白河藩士に会いに行ったが、金の話だろうか、よくわからない。
この夜は矢吹宿に泊った。


四月二十二日

今日は旧暦4月21日で、元禄2年は4月22日。須賀川。

今日は須賀川に着いて、早速乍単の家で興行となった。

芭蕉「あちこち田植えをしてて、村人総出で笛や太鼓に田植え唄が聞こえてきて、聞き慣れない旋律、言葉、どれも新鮮な物ばかりだった。」

風流の初めや奥の田植歌 芭蕉

乍単「風流、つまり俳諧興行を田植え唄の興で始めようということだべ。したがら田植のご馳走にイチゴを用意した。」

  風流の初めや奥の田植歌
覆盆子を折て我まうけ草 乍単

曾良「我が設け草‥自分で自分のために用意したとも取れますね。旅体で野宿の寝床を作ったとしましょうか。漱石枕流ではなく普通に枕石漱流ということにしまして。」

   覆盆子を折て我まうけ草
水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良

芭蕉「らん、と来たら疑問を反語に取り成すのが基本。水を堰き止めて昼寝するなんてとんでもない、カジカ漁をするに決まってる。」

  水せきて昼寝の石やなをすらん
籮に鰍の声生かす也 芭蕉

乍単「んだんだ。そこに河原の柳の葉が落ちて、笹蟹のようにカジカも成仏すんべ。葉が散れば月も見える。」

  籮に鰍の声生かす也
一葉して月に益なき川柳 乍単

曾良「夏の柳は旅人が涼むもので、西行柳も一昨日見たばかりです。秋になると涼む人もいなくなって、そこに収穫作業のための仮小屋が村人総出で建てられるとしましょう。」

  一葉して月に益なき川柳
雇にやねふく村ぞ秋なる 曾良


四月二十三日

今日は旧暦4月22日で、元禄2年は4月23日。須賀川。

昨日の「風流の」の歌仙のあと、そのまま乍単の家に泊まった。
今日は夕方になって可伸という人の庵に行った。帰り道に可伸庵の近所の善徳院、岩瀬寺、八幡宮を見て帰った。
翌日の興行を約束した。発句を用意しないと。


四月二十四日

今日は旧暦4月23日で、元禄2年は4月24日。須賀川。

今日は乍単こと相楽伊左衛門の所の田植えがあって、朝から慌ただしい。
酒やご馳走を用意しては運び、笛や太鼓に田植え唄、田植えフェスが始まった。
辛い仕事だからこそ楽しくやる。昔からの知恵だ。
蓑笠来た男達、早乙女、見てて飽きない。

午後から可伸の庵で切り蕎麦を頂いてから興行した。
昨日も匂いが気になってたが、やはり栗の花が咲いてた。緑色で見た目は目立たないけど、匂いはすごい。

かくれ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉

可伸「栗という字は西の栗と書いて、西方浄土に縁がある。その隠れ家に芭蕉さんのような光り輝く人が来て、蛍が泊まって行くようだべした。」

  かくれ家や目だたぬ花を軒の栗
まれに蛍のとまる露草 可伸

乍単「前句を普通に蛍のいる景色にして、みちのくの名所でも付けておこうか。浅香山の山の井は切り崩されてしまったが、蛍はまだそこにいる。」

  まれに蛍のとまる露草
切崩す山の井の名は有ふれて 乍単

曾良「田んぼになってしまったってことですな。石を渡しただけの橋なんてありそうですな。」

  切崩す山の井の名は有ふれて
畔づたひする石の棚橋

等雲「んだ。その橋を月の出る頃に柴背負った人が渡るべ。」

  畔づたひする石の棚橋
把ねたる真柴に月の暮かかり 等雲

須竿「その柴を背負った人は、いかにも秋の悲しさを知り尽くしたみたいに、長いこと小さな家に一人で住んでる。」

  把ねたる真柴に月の暮かかり
秋しり顔の矮屋はなれず 須竿

0 件のコメント:

コメントを投稿