人間に限らず、他の動物でも繁殖に費やすコストと自分の生を全うすることとの間にみんな矛盾を抱えているのかもしれない。
出産はしばしば命の危険を伴い、子育てには多くの時間を取られ、子供の居場所を確保し、食料を運び、外敵と戦い、多くのコストを支払う。
自分の幸福を最優先させるなら、繁殖などしない方が良いのだろう。ただ、生命が存続するには繁殖が不可欠だが、果たして動物の個体がその必要を意識しているのだろうかという疑問はある。
おそらくそれを意識できないから、自動的に発情して子供を作らせてしまう遺伝子を持つ者の子孫のみが残ったのだろう。
自分では制御できないどうしようもない衝動から、多くの動物は望むと望まざるとにかかわらず繁殖行動を取り、そのために命を落として行く。
人間はどうだろうか。近代になってその制御が可能になった瞬間、快楽だけを頂いて子供を作らないというずるをするようになった。それもまた少子化の一つの要因なのかもしれない。
ただ、それでもずるした者の遺伝子は残らない。むしろうっかり子供を作っちゃう人の遺伝子のみが残って行く。
それでは『大坂独吟集』から次の俳諧。
素玄独吟百韻「松にばかり」の巻(宗因編『大坂独吟集』より)
初表
発句
松にばかり嵐や花の片贔屓 幾音
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注にあるように、この発句は『太平記』第七、四十四、千剣破城軍事の吉野で連歌をする、
「長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。
の場面によるもので、「嵐や花のかたきなるらん」の脇を換骨奪胎して「嵐や花の片贔屓(かたびいき)」として、松にばかり嵐が吹いて花には吹いてない、とする。
さき懸てかつ色みせよ山桜
嵐や花のかたきなるらん
の句は、「先駆けて勝つ」という戦勝祈願の発句で、それに嵐が敵と応じる。
これに対して素玄の句は嵐は松の方に吹いて花には吹かないとする。実際に嵐が松にだけ吹くことがあるのかと思うと不自然な句なので、これも何か寓意があったと思われる。
あるいは松は松江重頼で、貞徳、貞室、貫風、親重などと激しい論戦を繰り広げたことを暗に示し、それと花(梅翁)とを対比してたのかもしれない。
長点があり「かづらき金剛山のむかし思やられ候」とある。葛城金剛は楠木正成の本拠地だった。
脇
松にばかり嵐や花の片贔屓
仰のごとくなびく藤がえ
松に絡みつく藤は、
みなぞこの色さへ深き松が枝に
ちとせをかねてさける藤波
よみ人しらず(後撰集)
夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
松にとのみも思ひけるかな
源重之(拾遺集)
など、古くから歌に詠まれ、目出度いものとされている。
源重之の歌の方は松に絡みつく藤を松に寄り添う女に見立てた感じもすし、主君に寄り添う臣下とも取れる。藤原が臣下の姓でであることを思えば、臣下と見る方が良いのかもしれない。
「なびく」という言葉も多くの臣下や民が朝廷になびくという意味で用いられることも多い。
ここでも発句を、松が自ら嵐を引き受けて藤の花を庇護するというふうに取り成したと見ていいのだろう。
点あり。
第三
仰のごとくなびく藤がえ
小うなづき二つ三つめに春暮て
前句の靡く藤が枝が小さく二つ三つ頷くうちに春は暮れて行く、とする。
「小うなづき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「小頷」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「こ」は接頭語) ちょっと首を傾けること。軽くうなずくこと。
※虎明本狂言・鈍太郎(室町末‐近世初)「互に、こうなづきをして」
とある。
長点で「『三つめ』あたひ千金の所也」とある。春の暮は三月で句も第三で三が重なるとも取れるが、三回頷くというのが当時の仕草として何か意味を持っていたのかもしれない。
四句目
小うなづき二つ三つめに春暮て
ねぶるあいだもみじかよの月
春が暮れて夏になると短夜になる。夜が短ければ寝ている時間も短い。四句目らしく本当にさっと流した感じで、特にひねりはなさそうだ。
点なし。
五句目
ねぶるあいだもみじかよの月
酒すこしきいて味はふ郭公
酒が回るという意味の「効いて」とホトトギスの声を聞いてと掛けて、「味はふ」も酒とホトトギス両方を受ける。
ホトトギスは夜明けを待って聞くもので、眠ってしまっては聞けないから、酒を飲みながら眠る間も惜しんでホトトギスを聞く、とする。
長点で「聞やうにおいて此うへあるまじく候」とある。
六句目
酒すこしきいて味はふ郭公
宿はづれにてはらすむら雨
ホトトギスは村雨に詠む。
はるとてや山郭公鳴かざらむ
青葉の木々の村雨の宿
伏見院(玉葉集)
などの歌に詠まれている。
ここでは旅体にして、昨日の酒が残っているのか、あるいは別れの杯を交わしてか、宿場のはずれで村雨も晴れて郭公の声がする。
点なし。
七句目
宿はづれにてはらすむら雨
旅の空日はまだ残るつかひ銭
「残る」は「日」と「銭」両方を受ける。五句目の作り方に似ているが、素玄の得意パターンか。日も銭もまだ残っていて、雨宿りをしながら村雨が止んだら宿場に向かう。
点あり。
八句目
旅の空日はまだ残るつかひ銭
わたしの舟を出さふ出すまひ
日がまだ残ってる頃、渡し船の船頭は船を出そうか出すまいか迷う。旅体が三句続く。
点なし。
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