日本や韓国のような儒教文化圏が何で鎖国によって長期に渡る平和を維持できたのか。
このことは戦争がその土地の生産力を越えて人口が増えることで起こるという原則に、わずかな例外を作り出していた。
儒教の特徴である長幼の序は、幼い頃の年齢が一つ上であることがフィジカル面に大きな強みとなるため、わりかし自然に受け入れられるという利点がある。これは大人になっても、一年二年ではそれほどではないが、年齢の差は経験の差となってやはり年長者が優位に立つ。
実際にはこれに加えて、男女のフィジカルな能力の差もまた男尊女卑の根拠となるわけだが、それも含めて比較的自然な形で人権、特に生存権の優先順位をつけることができたというのが大きい。
これに比べると西洋が同性愛者を排除したことは、フィジカル面や生経験の優位性とは無関係で、数の論理にすぎなかった。
年少者より年長者が優位に立つという単純な原理は社会をまとめるのに都合がよく、それがフィジカルな優位に基づく限り、争いもまた起こりにくくなる。
つまり長子相続によって、長男に優先的に生存権を与え、次男三男は生産手段が与えられずに放りだすということで、容易に人口調整ができたことが、日本や韓国の平和にとって大きかったのではないかと思う。
韓国の方の事情はよく知らないが、日本において、中世までは次男三男はお寺に送られることが多く、お寺に入れば結婚することもなく子孫を残すこともない。そのため効果的に子孫の数を減らすことができた。女性に関しては正妻だけでなく事実上側室も認められ一夫多妻だったため、一人当たり生む子供の数は一夫一婦制の夫婦よりは少なかった。
一夫一婦制の夫婦よりも一夫多妻の方が女性が一人当たり生む子供の数が減るのは世界的に普遍的な傾向だ。
ただ、中世の特に武家はしばしば兄弟同士で争い、それが下克上を生むようになり、そのため保元・平治の乱以降、関が原合戦に至るまでは乱世となった。徳川幕府の時代になって、儒教を国教化することで、厳密な長幼の序のシステムが作られ、次男三男はお寺だけでなく、都市での商工業に労働力を供給することとなった。
商工業の活性化と技術革新が農村へ還元され、新田開発や農機具の向上など生産性の向上につながる好循環を生み出した。
ただもちろん、捨子はかなりの数いて、俳諧のネタにされる程度にそれほど珍しいことではなかったと思われる。また、女性の余剰人口は遊郭を発展させた。
都市に出て行った男性の結婚の難しさは、遊郭の発展によって補完され、都市人口を抑制していたと思われる。
近代の人権思想からすると、こうした人口の抑制は「非人道的」と思えるかもしれないが、逆に近代の平等思想は人口の調整を困難にして、むしろ人口爆発から侵略戦争を常態化させ、地球規模での植民地争奪戦となり、二つの世界大戦にまで行き着いたことを思うと、人権思想は条件が整わないまま見切り発車した思想と言って良い。
人権思想は生産力の向上と人口の抑制があって初めて機能するもので、生産力が低かったり人口爆発が起こってたりすれば、結局飢餓か侵略かの選択になる。
もちろん飢餓を選択することは可能だ。二十世紀の社会主義の実験はまさにその結果となった。
今でも生産性や人口問題を無視した理想論は必ず飢餓を引き起こす。飢餓が生じれば、自分の食い扶持を確保するために他人を密告したり誣告したりして、飢餓だけでなく粛清で多くの人が死ぬことになる。
今の世界では、基本的に技術の転移を進めて地球全体の生産性の向上を図り、同時に近代化によって少子化が起こり人口が抑制されることで、まず経済を先にして、衣食足りて人権を知る状態を作って行くのがベストだと思う。
ただ、過去に別の仕方で平和を実現した例があることは記憶に留めたい。
それでは「松にばかり」の巻の続き。
名残表
七十九句目
かすむ塩垢離身もふくれつつ
吉日と舟乗初るちからこぶ
前句の塩垢離を船乗りの乗初(のりぞめ)の清めとする。
乗初はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「乗初・乗始」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 新調した乗物に初めて乗ること。また、新年に初めて乗物に乗ること。はつのり。《季・新年》
※殿暦‐嘉承元年(848)正月九日「今日依二吉日一新車乗始」
とある。新年の初乗りなら春になる。
長点で「又ちからこぶ玄々也」とある。正月の寒い時期に裸になってというのが「ちからこぶ」から伝わってくる。
八十句目
吉日と舟乗初るちからこぶ
喧嘩におよぶ尼崎うら
尼崎は瀬戸内海を通る廻船など、大阪に入れない大きな船の発着場で賑わっていた。
出入りする船も多ければ、どっちの舟が先だの、舟と舟がこすっただの喧嘩も珍しくはなかったのだろう。
点なし。
八十一句目
喧嘩におよぶ尼崎うら
焼亡の煙をかづく壁隣
火事と喧嘩は江戸の華とは言うが、江戸じゃなくても大きな街じゃ普通だったのだろう。
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『雲林院』の、
「松陰に煙をかづく尼が崎、煙をかづく尼が崎、暮れて見えたる漁火のあたりを問へば難波津に、咲くやこの花冬ごもり、今は現に都路の、遠かりし程は桜にまぎれある、雲の林に着きにけり雲の林に着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1708). Yamatouta e books. Kindle 版. )
を引いている。昔は藻塩焼く煙だったのだろう。海士の焼く藻塩の煙を被った海士ならぬ尼が崎、という洒落で、一種の地名の序詞のように用いている。
延宝の頃ともなるとは塩田製塩に取って代わられて藻塩焼く煙は昔のこととなっていて、煙をかづくといっても火事の煙をかづくことになる。
長点で「かづくの妙の一字に候」と謡曲の出典の使い方の巧みを褒めている。
八十二句目
焼亡の煙をかづく壁隣
何のかのとてしれぬ境目
壁隣りの壁が焼けてしまえば、どこに境界線があったかわからなくなる。あとでもめそうだ。
点なし。
八十三句目
何のかのとてしれぬ境目
たうとさや同じやう成仏ぼさつ
仏像にもいろんな種類があるが、今でも一部のマニアを別にすれば、種類の区別など分らない。昔の人も同じだったのだろう。芭蕉の元禄四年の句にも、
大津絵の筆のはじめは何仏 芭蕉
の句がある。
まあどの仏像が違うからと言って御利益がないわけではない。御利益があるなら同じことだ。
点あり。
八十四句目
たうとさや同じやう成仏ぼさつ
十方はみな浄土すご六
十方は東西南北に、東南、西南、西北、東北の四維と上下を加えた方角で、十方浄土というと仏はあらゆるところにいるということをいうが、ここではそこらかしこで浄土双六をやっている、となる。
浄土双六はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浄土双六」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 絵双六の一種。室町時代に起こり、江戸時代に流行した仏法双六。良い目を振って上がりになると極楽浄土があり、悪い目を振ると最後には地獄に落ち永沈(ようちん)となる。賽(さい)は「南無分身諸仏」の六字を記したものを用い、南閻浮州(なんえんぶしゅう)を振り出しに極楽・地獄の道程が絵に書かれている。じょうどすぐろく。《季・新年》
※実隆公記‐文明一一年(1479)九月一五日「浄土双六於二御前一打之」
とある。
長点だがコメントはない。
八十五句目
十方はみな浄土すご六
お日待の光明遍照あらた也
日待(ひまち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「日待」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 人々が集まり前夜から潔斎して一夜を眠らず、日の出を待って拝む行事。普通、正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない。後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる。影待。《季・新年》
※実隆公記‐文明一七年(1485)一〇月一五日「今夜有二囲棊之御会一、終夜不レ眠、世俗称二日待之事一也云云」
とある。
光明遍照はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「光明遍照」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 仏語。阿彌陀如来の光が遍(あまね)く十方を照らし、念仏の衆生をその光の中におさめとって捨てないと説く、「観無量寿経」の光明四句の文「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の、最初の一句。〔往生要集(984‐985)〕
※平家(13C前)九「其後西にむかひ、高声に十念となへ、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨とのたまひもはてねば」
とある。
前句の浄土双六を日待ちの娯楽として待っていた日の出は光明遍照新たなり、とする。
点あり。
八十六句目
お日待の光明遍照あらた也
おこりまじなふよし水のみね
よし水は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注に「京都東山の大谷」とある。ただ、次の句に東山が出てくるので吉野の吉水にして、次の句で東山の大谷に取り成したのかもしれない。
大谷の吉水だと吉水上人(法然)のことになる。
おこりはマラリアのことでそれに霊験があるよし水の光明遍照あらた也、となる。
点なし。
八十七句目
おこりまじなふよし水のみね
東山に位有人のあがり膳
マラリアから源氏物語の若紫巻の霊験ある修行僧を尋ねて行ったことの本説付けとする。源氏物語では北山だが、付け句の場合は多少変える。
点なし。
八十八句目
東山に位有人のあがり膳
蒔絵に見ゆる半切の数
半切(はんぎり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「半切」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 半分に切ったもの。
※島津家文書‐慶長三年(1598)正月晦日・豊臣氏奉行衆連署副状「半弓之用心に、半切之楯数多可レ有二用意一旨、被二仰遣一候」
② 能装束の袴の一つ。形は大口袴に似て裾短とし、金襴、緞子(どんす)などにはなやかな織模様のあるもの。荒神・鬼畜などの役に用いる。はんぎれ。〔易林本節用集(1597)〕
③ 歌舞伎衣装の一つ。広袖で丈(たけ)が短く、地質に錦または箔(はく)を摺り込んだもので、主に荒事役に用いる。はんぎれ。
※歌舞伎・男伊達初買曾我(1753)「五郎時致、半切、小手、臑当」
④ (半桶・盤切) 盥(たらい)の形をした、底の浅い桶(おけ)。はんぎりのおけ。はんぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑤ =つりごし(釣輿)」
とある。この場合は④で、位ある人の上り膳だから半桶でも蒔絵が、とやや大袈裟だ。
点なし。
八十九句目
蒔絵に見ゆる半切の数
能衣装松の村立はしがかり
半切を②の意味に取り成す。能役者の出てくる口の所に能衣装が掛けられていて、松の村立ちの蒔絵のようだ。
点なし。
九十句目
能衣装松の村立はしがかり
未明にはじまる此宮うつし
前句を能衣装が掛かっていて、松の村立があって、橋掛かりがあってという景色として、遷宮の情景とする。
点なし。
九十一句目
未明にはじまる此宮うつし
月くらく三井寺さして落たまふ
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、謡曲『頼政』の、
「地( サシ) 抑も治承の夏の頃、よしなき御謀叛を勧め申し、名も高倉の宮の内、雲居のよそに有明の月の都を忍び出でて、
シテ 憂き時しもに近江路や、
地 三井寺さして落ち給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.880). Yamatouta e books. Kindle 版. )
の場面を引いている。前句の「宮うつし」を高倉の宮の移って来たことと取り成す。
長点で「作例も不存、此はじめて承驚入候」とある。長点といえども、どこかで聞いたようなものも多かったということか。長く連歌俳諧の点者をやってて、このパターンは初めてだったようだ。
九十二句目
月くらく三井寺さして落たまふ
むかしにかへる妻をよぶ秋
これは謡曲『三井寺』の、
「これはさざ波や三井の古寺鐘はあれど、昔に帰る声は聞こえず。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1981). Yamatouta e books. Kindle 版. )
で、これはありがちなパターンだったのだろう。一応娘を探すところを妻を探すに変えている。
点なし。
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