2023年6月18日日曜日

  内閣府の「経済財政運営と改革の基本方針2023」は前年も言ってた「人への投資」という考え方をさらに一歩踏み込んでいる。

 「岸田政権では『新しい資本主義』を掲げ、従来『コスト』と認識されてきた賃金や設備・研究開発投資などを『未来への投資』と再認識し、人への投資や国内投資を促進する政策を展開している。」

 これが岸田さんの発案なのか、ブレーンがいるのか、官僚が考えたことなのかは定かではない。ただ、コストと未来への投資を対比させるというのは面白い。
 つまり従来の「労働者」のような労働力を時間当たりいくらで売って生活するという、いわば労働力という名の人身売買からの脱却という点では画期的だし、日本型の終身雇用の雇用形態を生かせる一つのモデルになるかもしれないからだ。
 つまり、企業は完成された労働力を買うのではない。人材を育てる義務を負うということだ。まあ、育てた人材をトレードするというのはありかもしれない。野球選手のやっていることだから。
 野球で言えば、選手を二軍のファームで鍛えて一軍の戦力へと育て上げるというのは、ずっとやって来たことだ。
 西洋的な感覚だと、選手はクラブで育ったとしても、自分の技能を売り込んでプロ契約を勝ち取るという考え方になり、西洋の労働者もキャリアを重ねて自分を高めて、それをより良い雇用主に売り込むというのが基本になる。
 これに対して日本型のシステムは、企業が将来の人材の卵を見つけて来ては、自分の会社で教育なり研修なりを行い、戦力に育て上げて活用する。つまり人材の価値は現在の労働力としての価値ではなく、未来の労働力としての価値から決定される。労働者の労働力としての価値を現在からではなく未来から決定しようというわけだ。
 労働者は労働力を切り売りして、いわば体を売って生活するその場限りの関係ではなく、労働者は先行投資という形でまず負債を背負い、それを返すために働き続けるというこの考え方は、実は戦後の日本の終身雇用の裏に隠されてきた考え方で、何ら新しいものではない。ただ、それが明確に概念化されたというのが一番面白い所だ。
 このやり方の弱点は、最初の負債がどこで返済されるのかが明白でないため、結局最初の負債のまま死ぬまで会社に拘束される、いわば債務奴隷に陥る危険があることだ。「社畜」とはこうした債務奴隷の別名に他ならない。
 古い体質の会社は概ね辞めたくても辞めさせてもらえない。いろいろ恩を着せることを言われて引き留められて、ずるずると定年後も低賃金で再雇用され、死ぬまで使い潰される。
 これは俺もよくわかっている。会社を辞める時は喧嘩するつもりでいかなくてはいけない。だがまあ、喧嘩すれば辞められるということでもある。それが表向きの「円満退社」の実態だ。
 日本の終身雇用制は、こうした雇用時の投資に対して返済をする、「恩返しをする」という意識で成り立ってた。そのため生涯一つの会社に拘束されるのが普通のことだった。
 経済が右肩上がりの時代は、会社の方も終身雇用と年功序列賃金体系はそれほど負担にならなかった。それが低成長とデフレの時代になると維持できなくなり、いわゆる「リストラ」の時代が来た。また、こうした投資型の雇用ではない、労働力として売買するいわゆる「非正規」や「派遣」労働者が膨れ上がることになった。
 「新しい資本主義」はこうした単純に労働力を売り買いする西洋型の雇用形態に積極的に移行させて、人材流動性を高め、労働者一人一人に自らの積極的なスキルアップを要求する形に変えるというのも一つの考え方だったし、俺自身もその方向を普通に考えていた。
 だからこそ、その逆に労働力の売買ではない「投資」という形態にまだ何か可能性があるのかどうか、ということになる。
 基本的に雇用側に「投資はしても拘束はしない」ということがルール化されなくてはならないと思う。
 例えば株式に投資しても、投資した会社に意見することは可能だが、資金が回収できなくてもそれは投資リスクとして資本家側が受け入れなくてはならない。つまり投資は自由だが、回収できるかどうかは投資家の人を見る目と株主の権利としての意見にかかっている。投資の失敗は資本家側の自己責任ということを徹底できなければ、昔からある終身雇用と何ら変わらないということだ。
 人材投資に置いてリスクは会社側が全面的に背負うことがルール化されれば、この考え方にまだ可能性があるかもしれない。
 終身雇用を止めるのであれば、回収できそうにない人材投資を切り捨てる自由が会社側に生じる。それと引き換えに生涯会社に拘束するという終身雇用形態を捨てる。
 逆に投資される側は教育だけ受けて成果を出す前に転職する権利がある。それを引き留めるには会社は高賃金で新たな投資をして引き留めることもできる。そこは駆け引きになる。
 極端なことを言えば、労働者一人一人が株式会社化して、賃金ではなく労働者の株を買うという形を取り、労働者は常に株価を上げる努力をし、会社は安く買って育てて高く売ることで利益が出るようにする、という考え方もあるかもしれない。
 人件費がコストではなく投資だという考え方の最終形態は、労働者の株式化かもしれない。

 それでは「松にばかり」の巻の続き。

二裏
三十七句目

   下十五日かよひ路の露
 秋の海浅瀬は西に有と申

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『藤戸』の、

 「さても去年三月二十五日の夜に入つて、浦の男を一人かたらひ、この海を馬にて渡すべき所やあると尋ねしに、かの者申すやう、さん候河瀬の様なる所の候。月頭には東にあり、月の末には西にあると申す。即ち八幡大菩薩の御告と思ひ、家の子若党にも深く隠し、かの者と唯二人夜に紛れ忍び出で、この海の浅みを見置きて帰りしが、盛綱心に思ふやう、いやいや下郎は筋なき者にて、又もや人に語らんと思ひ、不便には存じしかども、取つて引き寄せ二刀刺し、そのまま海に沈めて帰りしが、さては汝が子にてありけるよな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2720). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。
 月の末(下十五日)は西に浅瀬があると教えてくれた漁師を、敵方に同じ情報を与えるかもしれないということで殺害する。ひどい話だ。前句の「露」が生きていて、場面はオリジナルが春だったのを秋に変える。
 長点で「新しき通路にて候」とある。謡曲の言葉を借りながら、昔の源平合戦の故事を仄めかす程度にして前句の恋の情を残すというところに新しさがあったか。

三十八句目

   秋の海浅瀬は西に有と申
 上荷とるらし彼岸の舟

 西に浅瀬があるので大きな船は着けられないから、小船に荷物を積んで荷揚げする。
 ただ、西と彼岸の縁は西方浄土に渡ることを意味して、釈教の句としての二重の意味を持つことになる。
 点あり。

三十九句目

   上荷とるらし彼岸の舟
 薪買百味飲食ととのへて

 百味飲食はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「百味の飲食」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =ひゃくみ(百味)①
  ※霊異記(810‐824)中「大櫃に百味飲食を具へ納め」 〔無量寿経‐上〕
  ② 特に、人の死後四九日の間、仏壇にささげるさまざまの供物。

  「(百味)①」は、

  ① さまざまの美味、珍味。多くの料理。また、そのような食物を仏前に供えること。百味の飲食(おんじき)。
  ※懐風藻(751)侍宴〈刀利康嗣〉「八音寥亮奏、百味馨香陳」
  ※霊異記(810‐824)中「偉(たたは)しく百味を備(まう)けて、門の左右に祭り、疫神に賂ひて饗す」 〔曹植‐求自試表〕」

とある。
 仏前に供える様々なご馳走が運び込まれる。
 点あり。

四十句目

   薪買百味飲食ととのへて
 あたごの坊の納所ともみゆ

 「あたごの坊」は京の愛宕五坊のことで、この頃には既に日輪寺と伝法寺のニ坊は失われてたという。
 納所は納所坊主(なっしょぼうず)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「納所」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① (━する) 年貢などを納める所。また、年貢などを納めること。それをつかさどる役人をもいう。
  ※京都大学所蔵東大寺文書‐天喜三年(1055)一一月一日・東大寺牒「牒、以当年御封米内、民部録菅野奉方預納所、欲被下符之状」
  ② 寺院で施物・金銭・年貢などの出納事務を執る所。また、その役職やその事務を執る役僧。納所職。
  ※金沢文庫古文書‐応安三年(1370)加賀国軽海郷年貢済物結解帳(七・五五七三)「行照房方へ御志分に毎年可遣之由、納所方より承候之間、致沙汰候了」
  ③ 「なっしょぼうず(納所坊主)」の略。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「薪買百味飲食ととのへて あたごの坊の納所ともみゆ〈素玄〉」

とあり、

 「〘名〙 寺の会計や雑務を扱う下級の僧。納所ぼん。なっしょ。
  ※俳諧・西鶴大矢数(1681)第二七「今や引らん豆の粉の音 身の行衛納所坊主の塗坊主」

とある。
 百味飲食を整えるのは納所坊主の仕事だったか。

四十一句目

   あたごの坊の納所ともみゆ
 しこためしかねや鳥井に成ぬらん

 しっかりと溜めたお金を寄進して愛宕神社の鳥居を立てる。
 長点で「落堕ならで鳥居建立きどくに候」とある。俳諧だとついつい破戒僧ネタに走りがちだが、奇特なお坊さんとして神祇に持って行く点を評価する。

四十二句目

   しこためしかねや鳥井に成ぬらん
 家蔵其外たつる天びん

 鳥居を立てる費用は天秤にかければ家や蔵を立ててもさらに余るくらいの金額だ。
 点あり。

四十三句目

   家蔵其外たつる天びん
 どのかうのかたり付たる仲人口

 男の素行などあまり良い縁談ではないが、男の家の財産のことをあれこれ語って、強引に縁組する仲人。
 点あり。

四十四句目

   どのかうのかたり付たる仲人口
 よいとしをして紅粉やおしろい

 仲人をする婆さんはいい歳してやけに若作りしている。あるあるだったか。
 点あり。

四十五句目

   よいとしをして紅粉やおしろい
 この異見耳にあたるもしらね共

 前句を女への忠告とする。「こういっちゃなんだが、化粧濃いぞ」ということ。喧嘩売ってる感じもするが。
 長点で「心いきさてもさても」とある。

四十六句目

   この異見耳にあたるもしらね共
 君をながすの御沙汰冷じ

 忠告の内容を「君を流罪にするとは冷酷だ」というふうに変えて恋を離れる。
 鹿ケ谷の陰謀の場面で、清盛が後白河法皇を幽閉しようとするのを息子の重盛が咎める場面とする。
 点なし。

四十七句目

   君をながすの御沙汰冷じ
 京はただひそひそとして秋淋し

 君が流罪となって京都は静かになる。承久の乱の後の京都か。幕府の横暴に沈黙する。
 点なし。

四十八句目

   京はただひそひそとして秋淋し
 七つさがれば門をさす月

 七つは申の刻で、それが終わり酉の刻になるころには月が出て、寺院は門を閉ざす。「さす」は鎖すと月の光の「射す」に掛けている。
 点なし。

四十九句目

   七つさがれば門をさす月
 花の火もあだにちらすな城の内

 「花の火」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「花の火」の意味・読み・例文・類語」に、

 「咲いた花を火に見立てた表現。
  ※聞書集(12C後)「花のひをさくらの枝にたきつけてけぶりになれるあさがすみかな」

とある。
 花の火は花火ではなく、桜の花を火に見立てたもので、火の粉が外に飛べば城下は大変なことになるからというので城門を閉ざすのはわかるが、散った桜を火の粉に見立てて門を閉ざすのはいかにも大袈裟だが。
 長点で「用心時花の火までに心を付たる珍重」とある。

五十句目

   花の火もあだにちらすな城の内
 くま手鳶口ならびに鎗梅

 花の火のための火消し道具だから熊手や鳶口に加えて槍梅を用いる。
 槍梅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「槍梅」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 ウメの一品種。花は白く、やや淡紅色を帯びる。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)下「名所誹諧発句しなじな〈略〉やり梅のながえやつづくみこし岡」

とある。
 点あり。

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