マイナンバーカードに対する批判はある意味では、このシステムをより完全なものへとするうえで必要なことだし、もっと頑張れって言ってると受け止めた方が良い。
最初から完全なシステムなんてないし、弱点を洗い出しては改良してゆく作業は必要で、左翼やマスゴミのマイナカード叩きも、その改良のための貴重な提言としてゆくべきだろう。
まあ、最初の社会主義の労働運動はラッダイト運動に始まると言われている。こういう運動も、結局機械の欠点を洗い出して改良するのに役に立っていったんではないかと思う。
正反合が弁証法的発展なら、アンチ機械、アンチロボット、アンチAIがあって、それを乗り越えた所に本当の発展があるのかもしれない。
国民総背番号制にしても、国家が国民の情報を密かに管理し、弱みを握っては言うこと聞かせたりといった悪用ができるのも確かだ。だからこそ国民に割り振る背番号は秘密裏に振るのではなく、きちんと本人に連絡し、カードという形で国民の側から利便性の向上という形で同意を得て、その運用も透明性がなくてはならない。
ある意味、国民総背番号制に反対する人達がいたからこそ、マイナンバー制度は今の形になったとも言える。
そういうわけでパヨチンに感謝を。
それでは「松にばかり」の巻の続き。
三裏
六十五句目
のびたる髭を吹風の音
みめよしはおどろかれぬる松浦人
有名な、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
藤原敏行(古今集)
の歌による付けで、『太平記』の一宮御息所というみむよき女を、「見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒き」松浦人の松浦五郎が部屋に押し入って略奪してレイプしようという物語に持って行く。まあ『太平記』の方は龍神の怒りを買って船が沈んで因果応報というお約束の展開になる。
点なし。
六十六句目
みめよしはおどろかれぬる松浦人
たがしのびてかはらむ佐与姫
前句の松浦人を松浦五郎から松浦小夜姫に転じる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「松浦佐用姫」の意味・わかりやすい解説」に、
「伝説上の人物。古くは『万葉集』にみえる。大伴佐提比古(おおとものさてひこ/さでひこ)が異国へ使者として旅立つとき、妻の松浦佐用比売(さよひめ)が別れを悲しみ、高い山の上で領巾(ひれ)(首から肩に掛けて左右に垂らす白い布)を振って別れを惜しんだので、その山を「領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)」とよぶと伝える。大伴狭手彦(さてひこ/さでひこ)が朝廷の命で任那(みまな)に派遣されたことは『日本書紀』の宣化(せんか)天皇2年(537)条にみえるが、佐用姫の伝えはない。肥前(ひぜん)地方で発達した伝説で、奈良時代の『肥前国風土記(ふどき)』にも、松浦(まつら)郡の「褶振(ひれふり)の峯(みね)」の伝えとしてみえるが、大伴狭手彦連(むらじ)と弟日姫子(おとひひめこ)の物語になっている。夫に別れたのち、弟日姫子のもとに、夫に似た男が通ってくる。男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどると、峯の頂の沼の蛇であった。弟日姫子は沼に入って死に、その墓がいまもある、とある。昔話の「蛇婿入り」のおだまき型の話になっている。
松浦佐用姫は中世の文学でも人気のあった人物で、説経浄瑠璃(じょうるり)の「松浦長者」などの語物のなかでは、松浦長者の娘さよ姫は、大蛇の生贄(いけにえ)に捧(ささ)げられる女として登場する。『肥前国風土記』の伝説などからの転化であろう。東北地方の奥浄瑠璃では「竹生(ちくぶ)島の本地」となって語り広められ、岩手県などでは佐用姫を大蛇の人身御供(ひとみごくう)にする物語が伝説になっている。
領巾振(ひれふり)山は佐賀県唐津(からつ)市の鏡山のこととされ、その周辺には佐用姫にちなむ伝説が残っている。別れのとき佐用姫が袖(そで)を掛けたという袖掛松(別名、佐用姫松)が山頂にあるほか、松浦川上流には佐用姫岩(別名、松浦岩)という大きな岩が川の中にあり、姫は領巾振山からここに飛び降りたといい、その岩には足跡というくぼみがある。唐津市呼子(よぶこ)町の呼子の浦の古名を呼名(よぶな)の浦というのは、姫がここで夫の名を呼んだのに由来すると伝える。同市加部(かべ)島にある田島神社の末社の佐与姫神社は姫を祭神とし、祠(ほこら)には姫が泣きあかしたという望夫(ぼうふ)石がある。また、伊万里市山代(やましろ)町立岩(たちいわ)は、姫の死骸(しがい)が丸木船に乗って漂着した所といい、姫を祀(まつ)る佐代姫神社がある。神社と浦ノ崎駅の中間の田の畦(あぜ)には、姫を葬ったという塚もあった。神社には、帰国した大伴狭手彦が神饌(しんせん)を盛って供えたという高麗(こうらい)焼の壺(つぼ)が、宝物として伝わっている。なお、肥前地方をはじめ、九州北部では道祖神(「塞神(さえのかみ)」)をサヨの神(かん)といい、松浦佐用姫を葬って祀った神であると伝える。[小島瓔禮]」
とある。蛇が忍んできて孕む。
長点で「左手彦留守の間しれまじく候」とある。夫の大伴佐提比古(おおとものさてひこ)留守の間のことはわからないということで、本当は蛇ではなく普通に夜這いだった可能性もあるということか。
六十七句目
たがしのびてかはらむ佐与姫
恋衣おもきが上に打かけて
『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は、
さらぬだに重きが上の小夜衣
我が妻ならぬ妻なかさねそ
寂然(新古今集)
の歌を引いている。これを逃げ歌にして、誰かが自分の妻でない佐与姫の上に恋衣を打ちかけて孕ませてしまった、とする。
点あり。
六十八句目
恋衣おもきが上に打かけて
待宵のかねはらふ町役
町役(ちょうやく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「町役」の意味・読み・例文・類語」に、
「① 町内の住民としての義理やつきあい。町内に一戸をかまえる者に対して課せられた。近世、江戸や大坂などでは、町内見回り、冠婚葬祭などに一軒から必ずひとりは出なければならないなどの義務があった。まちやく。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浮世草子・西鶴織留(1694)五「いやといはれぬ祝言振舞、町役(ちゃうヤク)の野おくりには出ぬ事成難し」
② 特に、大坂で、各町の費用をその町人に負担させるもの。一軒一役の役割のほか、間口割、坪割、顔割(町人の頭数による)などの方法で徴収された。
※俳諧・大坂独吟集(1675)上「恋衣おもきが上に打かけて 待宵のかねはらふ町役〈素玄〉」
③ 「ちょうやくにん(町役人)」の略。
※雑俳・笠付類題集(1834)「耳にたつ町役持ば犬の声」
とある。
恋に思い悩んでるのも大変なのに、町役の金も払わなくてはいけない。「待つ宵の鐘」から「金払う」を導き出す。
長点で「恋よりも公役及難義候か」とある。
六十九句目
待宵のかねはらふ町役
家主はわかぬ別れの牢人に
「わかぬ別れ」は「飽かぬ別れ」と同じでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「飽ぬ別れ」の意味・読み・例文・類語」に、
「いやになったわけではないのに別れること。不本意な別れ。なごり尽きない別れ。
※後撰(951‐953頃)恋一・五六八「今ぞ知るあかぬ別の暁は君をこひちにぬるる物とは〈作者不明〉」
間借りしてた牢人とのわかぬ別れ、要するに家賃を踏み倒して逃げられた、ということ。家主が代りに町役を払う。
点なし。
七十句目
家主はわかぬ別れの牢人に
委細の事はたがひに江戸から
家主は単にその家の主(あるじ)という意味もある。牢人の主人が妻子を置いて出て行ってしまい、その書置きに「詳しいことは江戸に着いたら」とある。
点あり。
七十一句目
委細の事はたがひに江戸から
道づれと箱根の切手見合て
切手はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「切手」の意味・読み・例文・類語」に、
「① ある定まった目的・用途をもつ物や銭を、その関係から切り放し、別の性格をもつ「切物」とする権利を付与する証文。中世の切符、為替(かわし)、割符(さいふ)、年貢などの貢租 の預状(あずかりじょう)などをいう。
※上杉家文書‐(永正五年)(1508)一一月二三日・倉俣実経外五名連署奉書「古志郡内御料所土貢事、御屋形様被レ直二御位一候之間、如二切手一復二前々一、急度御進納尤候」
② 江戸時代の通行(往来)手形。関所手形(居住地の名主、五人組の証明によって発行されるもの)、手判の類。割符(さいふ)。
※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月一八日「道中の御切手、爰元に無レ之候」
※浮世草子・世間娘容気(1717)六「御関所あって、御切手(キッテ)なくては」
③ ある場所にはいることを認めて発行する券。入場券。
※雑俳・田みの笠(1700)「おづおづと切手を出す芝居口」
※新聞雑誌‐三一号・明治五年(1872)二月「文部省、博物館に於て博覧会を催さる。〈略〉切手を以て拝観することを許さる」
④ 営業などの許可証。
※人情本・恩愛二葉草(1834)三「昔拙弾(かじ)った三味線が役に立ったも悲しい事、仁太夫さまの切手を貰うて、漸う繋ぐ細い命」
⑤ 商品に対する前払いの証券。これをもって商品の引き換えができる。商品券。商品切手。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉後「ビスケットの鑵や、呉服の切手まで貰ってある」
⑥ 江戸吉原大門の通行証。遊女が外出する時、抱え主の発行するこれを番所に見せた。
※雑俳・柳多留‐二三(1789)「切(きッ)手を見せて田楽を喰いに行き」
⑦ 金銭預かりの証文。借用手形。金銭切手。
※当代記(1615頃か)四「只切手にて黄金を借引す」
⑧ 江戸時代、諸大名家の蔵屋敷が米商人に発行した米穀の空売手形。蔵預かりを保証して発行する。米切手、大豆切手などがある。一種の倉庫証券。明治四年(一八七一)にその発行が禁止された。」
など、いろいろなものに用いられる。この場合は②の箱根の関の通行手形のこと。
男に関して審査は簡単だが、女の場合はきっちりと調べられる。この場合も同行の女の手形に何か不備があったのか関所で止められてしまい、詳しいことは江戸に戻ってからまた、ということになる。
点あり。
七十二句目
道づれと箱根の切手見合て
やぶれつづらを明て悔しき
関を越えるってんで葛籠を開けて切手(手形)と取り出そうっていと、何とまあその葛籠とややが破れてて‥‥。
点なし。
七十三句目
やぶれつづらを明て悔しき
あるるとやにくき鼠を取にがし
旅体から家にいる時の体として、葛籠から食い物を出して食おうとすると葛籠が鼠に破られていて、結局その鼠にも逃げられてしまい‥‥。
点あり。
七十四句目
あるるとやにくき鼠を取にがし
へる油火も消る秋風
油を鼠に舐められて油が足りなくなった所へ、秋風が吹いて火も消えてしまう。
点なし。
七十五句目
へる油火も消る秋風
ひら岡へくる姥玉のよるの月
枚岡(ひらおか)の姥ヶ火の伝説による付け。ウィキペディアに、
「『諸国里人談』によれば、雨の夜、河内の枚岡(現・大阪府東大阪市)に、大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉として現れたとされる。かつてある老女が平岡神社から灯油を盗み、その祟りで怪火となったのだという。
河内に住むある者が夜道を歩いていたところ、どこからともなく飛んできた姥ヶ火が顔に当たったので、よく見たところ、鶏のような鳥の形をしていた。やがて姥ヶ火が飛び去ると、その姿は鳥の形から元の火の玉に戻っていたという。このことから妖怪漫画家・水木しげるは、この姥ヶ火の正体は鳥だった可能性を示唆している。
この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。それによれば、姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。」
とある。「姥」と枕詞の「うばたま」を掛けている。
点なし。
七十六句目
ひら岡へくる姥玉のよるの月
宮司が衣うちかへしけり
枚岡は枚岡神社があり、姥玉を枕詞とすることで姥ヶ火の本説を逃れられる。
いとせめて恋しき時はむば玉の
よるの衣を返してぞきる
小野小町(古今集)
の歌の縁で枚岡神社の宮司が月の夜に衣を打ち返して着る、とする。
点なし。
七十七句目
宮司が衣うちかへしけり
神木の花見虱やうつるらん
花見虱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「花見虱」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 春、暖かくなった花見頃に繁殖し、衣服の襟や袖などにまではい出してくる虱。花虱。《季・春》
※俳諧・誹諧初学抄(1641)「末春 花みじらみ」
とある。宮司に神木、虱に衣打ち返すと付けて、神木の花見をしていた宮司が花見虱を移されて衣をひっくり返す。
点あり。
七十八句目
神木の花見虱やうつるらん
かすむ塩垢離身もふくれつつ
塩垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「潮垢離・塩垢離」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 海水をあびて身を浄めること。海水でみそぎをすること。
※後鳥羽院熊野御幸記‐建仁元年(1201)一〇月一一日「於二此宿所一塩垢離かく。眺二望海一。非二甚雨一者可レ有レ興所也」
とある。
虱を移されて塩垢離をして体を清めてはみるが、体のリンパ腺の腫れは引かない。
長点で「『身もふくるる』よく出申候」とある。
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