朝は晴れていたが昼頃から曇り、これから台風が来るのだろうか。
それでは「我もらじ」の巻の続き、挙句まで。
十三句目。
行燈はりてかへる浪人
着物を碪にうてと一つ脱 嵐雪
「着物」はここでは「きるもの」。
牢人は腐っても武士で、女房に居丈高に砧打てと命じるが、着物が一着しかない。
十四句目。
着物を碪にうてと一つ脱
明日は髪そる宵の月影 越人
最後の着物に碪を打って、質屋に持っていくのだろう。目出度く天下不滅の無一文となり、出家を遂げる。
十五句目。
明日は髪そる宵の月影
しら露の群て泣ゐる女客 越人
露はしばしば涙の比喩となる。月夜に涙をぼろぼろこぼして泣く女客も、明日は出家する。最後の憂き世の月となる。
十六句目。
しら露の群て泣ゐる女客
つれなの医者の後姿や 嵐雪
女客の連れは御臨終です。
十七句目。
つれなの医者の後姿や
ちる花の日はくるれども長咄 越人
花は散り日も暮れ、花見は終りだというのに医者は誰かと長々と話し込んでいる。連れない人だ。
十八句目。
ちる花の日はくるれども長咄
よぶこ鳥とは何をいふらん 越人
呼子鳥は土芳の『三冊子』に、
「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)」
とある。つまり誰もわからなかったということだ。
前句の長話は呼子鳥についてあーだこーだと薀蓄を傾けていたか。
呼子鳥、稲負鳥、百千鳥は古今伝授の三鳥と呼ばれ、古今伝授を受けた人しか知らないと言われていた。呼子鳥は今日ではツツドリ説が有力。稲負鳥(いなおうせどり)は鶺鴒説が有力、百千鳥は鶯説と不特定多数説がある。
この句は半歌仙としては挙句になるが、あまり挙句らしくない。『芭蕉七部集』の中村注に、
「この両吟は歌仙であったらしいが、芭蕉の意にかなわないところがあったので一折(半歌仙)だけ掲げ、後半を削除したという。(越人著『猪の早太』。享保十四年稿)」
とある。
『猪の早太』は『不猫蛇』に続いて支考をディスった書で、『阿羅野』の風を生涯引きずってしまった越人からすれば、芭蕉の若い頃の風を軽視するのが耐えられなかったのだろう。
支考の風は「軽み」以降の風を芭蕉に倣い、晩年の芭蕉にも不易流行からの脱却という点では大きな影響を与えたと思われるが、芭蕉がそれを明確に体系化しなかった所に死が訪れてしまい、支考の『俳諧十論』やその他の俳論書が晩年の芭蕉の意志に即したものだったかどうか、多くの門人も疑問視していた。
猪(ゐ)の早太(はやた)の鵺退治のように、ここに支考という魔王討伐に名乗りを上げたというわけだ。
『続猿蓑』の編纂に支考が係わっていたという所で、越人は、
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
を発句とする一巻に対し、
「猿蓑にもれしいひやう松露ならでもいか程かしかた有べきに、冬季にしたる不都合さ、一向初心の発句なるに、沾圃にもせよ貴房にもせよ、翁の添削あるならば此まま集には入がたしと直さるべき事鏡影たり。万一其座の時宜にしたがひいひ捨の句はありとても、入集の沙汰におよぶべからず。されば翁の叮嚀なる門人の名まで後代に残ることを惜み、先にあら野撰集の時、嵐雪越人両吟の歌仙後の一折翁の心に応ぜざるところありと削捨て、ただ一折をあらはし給へり。是にても得度せられ、貴房の偽作を恥給へ。」
と述べている。
『続猿蓑』の編纂に芭蕉の最後の旅で伊賀に行ったときに、支考も係わったのは確かだろう。ただ、まだ若い支考にどの程度の影響力があったのかどうかはわからない。
「猿蓑に」の巻はこの時の伊賀で巻かれたもので、『続猿蓑』がこの時伊賀に残されたまま遺稿となり、後に支考のあずかり知らぬところで刊行されたならば、単に未完の草稿が出版されただけでなかったかと思う。
支考は『梟日記』の椎田の所で、
「夜更て朱拙・怒風など名のりて戸をたゝき來る。此人々は黒崎のかたにありて、きゝおひ來れるにぞありける。朱拙のぬし續さるみのを懐にしきたる。さりや此集は先師命終の名殘なりしが、さる事の侍て武洛の間をたゞよひありきて、今こゝに見る事のめづらしうも、かなしうもおもはれて、泪のさと浮たるが、人にかたるべき事にあらずかし。」
と記している。
とはいえ、芭蕉が実質的に編纂に係わったとされる『阿羅野』『ひさご』『猿蓑』などは、かなり芭蕉による手直しがなされていたことは想像できる。
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