今日は旧暦八月十五日。中秋の名月。昔の人はこの明るい月の夜を無駄にしまいと遊んで過ごした。
昼は晴れていたが、夕方になって羊雲の大群が空を覆ってゆく。でもつい今しがた、細い雲に分断されながらも、月が登るのが見えた。
最近「親ガチャ」という言葉を聞くが、映画「タイタニック」の「人生は贈り物だって分かったんだ。だからそれを無駄にするようなことはしないさ。」という名言を思い出した。
人生は日々是毎日がガチャなんだと思う。次にどんなガチャを引くかは誰も知ることはできない。だから毎日を大切に。
それでは「土-船諷棹」の巻の続き。
十三句目。
うきを盛の酒-中-花の時
発句彫ル櫻は枝を痛むらん 其角
桜の気に発句を掘りつけるとは、本人は風流気取りでも、桜を痛めるなんてのは無風流の極み。まあ酔っ払って羽目を外してのことなのだろう。
其角と言うと、屏風に「此所小便無用」なんてしょうもない揮毫をした書家に、「花の下」と付け加えて発句の形にして救ったというエピソードがある。
十四句目。
発句彫ル櫻は枝を痛むらん
かへり見霞む落城の月 楓興
桜に彫った発句は敗軍の将の辞世の句だったか。
十五句目。
かへり見霞む落城の月
笠軽く鞋に壹分をはきしめて 長吁
落城の際、金一分くすねて逃げてきた足軽であろう。
十六句目。
笠軽く鞋に壹分をはきしめて
関もる所佐渡の中山 柳興
前句の金一分に佐渡の金山の連想で、東海道の名所「小夜の中山」を「佐渡の中山」とする。命なりけり(生きていてよかった)佐渡の中山。
十七句目。
関もる所佐渡の中山
柴荷ふ妙の僕となりにけり 楓興
「僕」は「ヤツコ」とルビがある。
大友黒主であろう。黒主は『古今集』仮名序で「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」と評されたが、謡曲『志賀』では、
「不思議やなこれなる山賤を見れば、重かるべき薪になほ花の枝を折り添へ、休む所も花の蔭なり。これは心ありて休むか。ただ薪の重さに休み候か。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.2708-2712). Yamatouta e books. Kindle 版. )
というように、逢坂の関を舞台にして薪を負い花の陰に休む姿が描かれる。
江戸時代らしく「山賤」を「やっこ」に変える。
十八句目。
柴荷ふ妙の僕となりにけり
老母ヲ牛にのせて吟ふ 其角
本来なら牛に柴を乗せて運ぶところを、老母を牛に乗せ、柴は水から背負う。「吟」は「サマヨ」とルビがふってある。
孝行話のようだが、出典があるのかどうかはよくわからない。
二表、十九句目。
老母ヲ牛にのせて吟ふ
うき雲の聟をたづねて問嵐 柳興
聟は老母と一緒に行雲流水に旅に出てしまった。残された妻はどこへ行ったのか嵐に問う。
二十句目。
うき雲の聟をたづねて問嵐
乞食の筋をいのる野社 長吁
浮雲の聟は乞食坊主になっているのではないかと、その方面をあたって廻り、野の社に祈る。
二十一句目。
乞食の筋をいのる野社
水へだつ傾-里は垣のひとへにて 其角
傾-里は河原乞食の住む部落のことか。川の向こう側に一重の垣がある。前句の野社を部落の神社とする。
二十二句目。
水へだつ傾-里は垣のひとへにて
心を伽羅に染ぬゆふがほ 楓興
傾-里を傾城の類語として、下級遊女の里としたか。心の中では伽羅の香を薫き込んでいる。『源氏物語』の市井の夕顔の俤を添える。
二十三句目。
心を伽羅に染ぬゆふがほ
つれづれの蛍を髭にすだくらん 長吁
夕顔は巻き髭で草木や棹に絡みつく。心を伽羅に染めた夕顔はたまたまやって来る蛍を巻き髭で捕らえようとしているのだろうか。それじゃ食虫植物になってしまうが。
二十四句目。
つれづれの蛍を髭にすだくらん
羇行のなみだ下-官哥よむ 柳興
羇行は羇旅と同じでいいのだろう。前句を女性関係で左遷になったとしての旅立ちであろう。下官が餞別の歌を詠む。
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