2021年9月9日木曜日

 今日は新暦の重陽で、個人的には二回目のワクチン接種の日。今のところ特に副反応はない。
 あと、「升買て」の巻「秋もはや」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは『笈日記』の続き。

   「畦止亭
   今宵は九月廿八日の夜なれば秋
   の名殘をおしむとて七種の戀を結
   題にしておのおのほつ句あり。是ハ
   泥足が其便集に出し侍れバ爰に
   しるさず。」(笈日記)

 泥足編元禄七年刊の『其便』の最後の方に、

 「此集を鏤んとする比、芭蕉の翁は難波に抖數し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半哥仙を貪り、畦止亭の七種の戀を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

という前書きの後、「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を掲載している。撰集があらかた完成してた時に芭蕉が大阪へやって来たため、急遽追加したのではないかと思う。芭蕉を追悼する記述がないので、刊行はこの「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を追加して、すぐに原稿を京の井筒屋に送って為されたのであろう。
 その七種の恋は以下の通りだ。

  畦止亭におゐて卽興
   月下送兒
 月澄や狐こはがる兒の供     芭蕉
   寄鹿憶壻
 篠越て來ル人床し鹿の脛     洒堂
   寄薄戀老女
 花薄嫗が懐寐て行かん      支考
   寄稻妻妬人
 いなづまや暗がりにさす酒の論  惟然
   深窓荻
 雙六の荻の葉越や窓の奥     畦止
   寄紅葉恨遊女
 逢ぬ日は禿に見する紅葉哉    泥足
   聽砧悲離別
 洗濯の中に別るゝ小夜砧     之道

 まず芭蕉の句だが、

   月下送兒
 月澄や狐こはがる兒の供     芭蕉

 夜に稚児を送るというのがどういうシチュエーションなのか、当時の人なら思い当たるものがあったのだろう。今では夜の外出が普通でも、昔はわざわざ夜に外出するには何か理由があると考えるものだ。
 たとえば言水独吟「木枯らしの」の巻の二十八句目の、

   腰居し岩に麓の秋をみて
 朝霧かくす児の古郷       言水

の句は、稚児の帰省の旅が暗いうちに始まり、朝霧にようやく麓の秋の景色と朝霧に隠れた故郷の姿を見ている。
 稚児との別れは、『奥の細道』の旅の新潟での「文月や」の巻十九句目に、

   蝶の羽おしむ蝋燭の影
 春雨は髪剃児(ちご)の泪にて  芭蕉

とあるような、出家による別れもある。
 貞享二年の本式連歌を取り入れた「涼しさの」の巻六十五句目にも、

   名をあふ坂をこしてあらはす
 後の月家に入る尉出る児     素堂

のように、月夜に別れて逢坂山を越える稚児が描かれている。
 稚児が人目を避けて月の夜に旅をするというイメージが一般にあったとすれば、芭蕉の句もそのイメージを借りながら、「狐こはがる兒の供」と取り囃したのであろう。
 狐が人を化かすといった怪談話はこの頃既に一般的だった。芭蕉の延宝四年の「此梅に」の巻八十九句目に、

   わけ入部屋は小野の細みち
 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん  桃青

の句がある。美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。
 この手の話は鉄板だったのだろう。延宝六年の「実や月」の巻二十一句目の、

   そよや霓裳羅漢舞する
 やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子

の句もその手の話か。楊貴妃の舞を見ていて気付いたら幻と消えていったので、「雲の通い路吹き閉じよ乙女の姿しばし留めん」となる。これも狐に化かされたのであろう。
 寛文の頃の宗因独吟「花で候」の巻八十八句目にも、

   浮橋を踏はづすかとみる夢に
 ため息ほつと月の下臥      宗因

 天女の屋敷に誘われてついて行くと、突然足元の浮橋が消え去ってまっさかさま。気付くとあれは夢で、月の下に横たわってほっと溜息を付く。同じようなネタだ。
 怖がるのはこうした怪異とは限らない。当時は人魂も狐火と呼ばれた。才麿編『椎の葉』に

   窃武者樵のかよふ道に馴レ
 光のちがふ燐(きつねび)の色  執筆

の句もある。大晦日の王子の狐火は有名だった。其角編『続虚栗』に、

 年の一夜王子の狐見にゆかん   素堂

の句がある。
 さて、七種の恋の二番目の句。

   寄鹿憶壻
 篠越て來ル人床し鹿の脛     洒堂

 壻は婿(むこ)と同じ。題は鹿の姿にかつての通ってきた婿のことを思い出す、というものだ。
 笹の茂る中をやって来た鹿に婿のことを思い出す。単に鹿とせずに「鹿の脛」と言う所に取り囃しがある。鹿が正面を向いていると前足が男の足のように見えるということか。
 通い婚と妻訪う鹿との重ね合わせは古典的な題材だ。
 三番目の句。

   寄薄戀老女
 花薄嫗が懐寐て行かん      支考

 薄に寄せる老女への恋という題で、薄は「招く・白髪」の連想が働く。
 老いても花のような白髪の姥が招くので、姥の懐で寝て行きたい。支考は『禿賦』だけではなかった。
 熟女愛は『源氏物語』「紅葉賀」の典侍(ないしのすけ)にも見られる。若紫から典侍まで幅広く愛すのが風流というものだ。
 句の方は『伊勢物語』第六十三段「九十九髪」の本説であろう。

 百歳に一歳たらぬつくも髪
     われを恋ふらしおもかげに見ゆ

という歌を詠み、その夜はともに寝ることになる。
 四番目の句。

   寄稻妻妬人
 いなづまや暗がりにさす酒の論  惟然

 嫉妬の情を稲妻に喩えるという題で、何とも怖そうだ。
 「論」は道理を述べるという意味もあるが、「あげつらふ」という訓もあるように、異を唱える、非難するというニュアンスがある。酒の論と言えば、いわゆる「飲んでくだ巻く」という状態であろう。
 それだけでもうんざりするのに、うっかりしたことを言って地雷を踏んだら暗がりに稲妻が走る。
 議論が有益なのは、科学の議論のようなきちんと管理された議論だけで、議論が大概非難の応酬に終始し「やり込め術」になっているのは、洋の東西問わず一緒ではないかと思う。
 五番目の句。

   深窓荻
 雙六の荻の葉越や窓の奥     畦止

 深窓の荻という題だが、『源氏物語』の軒端荻をイメージしたものか。深窓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「深窓」の解説」に、

 「〘名〙 奥深い窓の内。家の中の奥深い部屋。多く、身分の高い家柄、大切に扱うことなどの意を含んで用いられる。深閨。
  ※経国集(827)一〇・夏日同美三郎遇雨過菩提寺作〈小野年永〉「深窓欲レ曙憑レ松暗。絶巘初明衘レ雲蘿」 〔翁巻‐宿寺詩〕」

とある。
 家の奥で双六遊びをしている女の所に密かに通ってくる男がいるというところで、恋の句になる。
 『源氏物語』の空蝉と軒端荻は碁を打っていたが、俳諧だからそこは雙六に変える。
 雙六はバックギャモンのような古くからあるサイコロを用いたボードゲームで、博奕に用いられることが多かったが、江戸時代には繪雙六という「振りだし」と「上り」がある今の双六に近いものが発達し、浄土双六が流行した。延宝五年の「あら何共なや」の巻二十七句目に、

   野郎ぞろへの紋のうつり香
 双六の菩薩も爰に伊達姿     信徳

の句がある。
 六番目の句。

   寄紅葉恨遊女
 逢ぬ日は禿に見する紅葉哉    泥足

 題は「紅葉に寄せ、遊女を恨む」であろう。遊女が恨むではなく、客の男がつれない遊女を恨むもので、当時の遊郭の遊女は客を選ぶことができた。むしろいかに遊女を落とすかが男の甲斐性でもあった。王朝時代の通い婚を疑似体験をする場所だった。今でいうとソープランド形式ではなく、出会い系に近い。
 客の方も誰でもいいというわけではなく、それぞれに押しがあったのだろう。お目当ての遊女に見せようと持ってきた紅葉も、残念ながらあってもらえず、揚屋の禿に見せる。
 七番目の句。

   聽砧悲離別
 洗濯の中に別るゝ小夜砧     之道

 題は「砧を聞いて離別を悲しむ」で、これだけで李白の、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

の詩が浮かんでくる。この詩の情を俳諧らしく表現するわけだ。
 そういうわけで出征などという重いテーマではなく、やってくる洗濯女への恋にする。当時は洗濯女が家にやってきて洗濯してくれたが、洗濯が終わり、仕上げに砧を打ち終えると帰って行く。

  「明日の夜は芝柏が方にまねきおもふ
   よしにてほつ句つかはし申されし。
 秋深き隣は何をする人ぞ     翁」(笈日記)

 この句は2017年11月16日の俳話でも取り上げた。
 本来は興行のための発句で、秋も深まる中、こうしてみんな集まってくれたけど、さあ、隣は何をする人かな、ということで、連衆の答えは「もちろん俳諧だ」というところだろう。秋の終わりの物悲しさを打ち崩そうということで、

 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

にも通じるものがある。
 ただ、この句が元文三年(一七三八)の野坡等編『六行会』に収録されている、

 秋深し隣は何をする人ぞ     芭蕉

の形になってしまうと、この発句は興行と切り離され、句の方も「秋深し」「隣は何をする人ぞ」の二つの文章に分裂してしまうことになる。ここからこの句の独り歩きが始まる。
 「秋深き隣」だと「秋も深まる中でお隣さんは」と繋がるわけだが、「秋深し」と切ってしまうと単に「秋も深まった!隣は‥‥」と暮秋と隣人が分離されてしまい、近代俳句で言うところの二物衝突になってしまう。ちなみに「し」も「ぞ」も切れ字だから、切れ字が二つになってしまう。
 そこから晩年の芭蕉の孤独というふうに受け取られるようになっていった。
 さらにこの句はちょうど筆者が子供の頃、つまり七十年代にはマスコミ関係でよく用いられた。つまり、高度成長期を経て様々な地方から大都市へと人口が流入した結果、隣近所との人間関係が希薄になり、それを象徴するかのような言葉として芭蕉のこの句が盛んに引用された。木枯し紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった頃だった。
 それは芭蕉が思いもしなかった用いられ方だったのだろう。そのせいでこの句は、隣近所への無関心の句というイメージが広まってしまった。

  「廿九日
   此夜より泄痢のいたはりありて神無月
   一日の朝にいたる。しかるを此叟ハよのつね
   腹の心地悪シかりければ是もそのまゝにてやみ
   なんと思ひいけるに二日三日の比よりやゝ
   つのりて終に此愁とはなしける也。されば
   病中の間は晋子が終焉記にくはし
   けれバ但よのつねの上わづかにかきもら
   しぬる叓を支考が見聞には記し侍る。」(笈日記)

 元禄七年の九月は小の月で二十九日で終わる。翌朝は神無月一日になる。
 この日から「泄痢」があったという。今でいう下痢のことだ。あるいは下血を伴うものだったか。
 下痢は前からしばしばあったのだろう。いつものこととして放置していたら容態は急変してゆく。
 ここから先の話は其角編元禄八年刊の『枯尾花』冒頭の「芭蕉翁終焉記」と重複になるため、そこにない話だけを書き記すことになる。

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