2021年9月27日月曜日

 今日も朝から曇り、荏田劔神社の少し先の方を歩いてきた。早淵川には鵜や青鷺がいた。カルガモはいつもいる。
 日本のヒーローが極力犠牲を出さずに敵を倒すというのは、『鬼滅の刃』でも受け継がれている。敵を倒すことよりもみんなを守ったということを勝利条件としている。
 たとえばスターウォーズ・エピソード9の惑星パサーナの場面などは、アメリカ人は四十二年に一度のお祭りが滅茶苦茶にされていく場面に歓喜の声を上げるんだろうな。そういう所がアメリカ人って嫌われるんだよ。日本のアニメだったら「祭り回」へ持って行くところだろう。
 あそこはファースト・オーダーの襲撃から、まず祭りを守らなくてはいけなかったのではないか。アキ=アキの人々と協力してファースト・オーダーを追払い、平和の戻った祭にレイの年甲斐もなくはしゃぐ姿とか見たかったな。
 多様性というのは異なる価値観を理解することで、価値観が異なれば衝突するのは当然だという前提で考えなくてはならない。相手がいかに高圧的で一方的であろうと、それを一度受け止め、理解したうえで従うか従わないかを決めなくてはならない。『鬼滅の刃』の柱会議はそれを教えてくれる。
 例えて言えばアントニオ・猪木のプロレスのようなものだ、相手の技をずっと受け続け、それに耐え抜いたうえで、最後に延髄切りで勝つ。サッカーで言えば、ディフェンシーブに構えながら敵の攻撃を凌いで、ワンチャンスのカウンターを決めて勝つ。
 敵が何を考えているのか、どのような手を使って来るのか、わからないのに闇雲に抵抗してもそれは無謀というものだ。まずは敵の攻撃を凌ぎながら相手の手の内を探り、見切ったところで反撃に出る。孫子も「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言っている。
 パワハラ上司がいたとしても、それに即座に口答えしたり反論したりするのは賢いやり方ではない。まずはじっと我慢しながら相手の考え方を探り、それが理解できた時点で理不尽と感じたら反撃すればいいし、もっともだと思うなら従えばいい。理解できたときに、その人は間違いなく人間として成長できる。自分の考え方だけでなく、他人の考え方も理解することで、人間としての広がりが生まれる。多様性を認め合う文化はまずそこから始まる。
 これは国家だとか民族とかでも言えるのではないかと思う。日本は太平洋戦争に負けて、米軍がやってきてオキュパイド・ジャパンになった時、山に籠って最後まで抵抗するという選択肢もあっただろうし、アメリカ人相手に自爆テロを繰り返す道もあっただろう。日本はそれをやらずに耐え抜いた。そしてアメリカから学ぶべきものを学び取ったことが、その後の繁栄につながった。
 明治維新の時も攘夷を早々と放棄して、西洋を学ぶ道を選んだ。
 耐えることを知っているのが日本人の強さだと思う。だから、シージンピンも心した方が良い。たとえ日本を占領できたとしても、必ず耐え抜いて見せる。そして三十年後には日本人が中国を支配している。

 それでは「落着に」の巻の続き。

 十三句目。

   やけどなをして見しつらきかな
 酒熟き耳につきたるささめごと  其角

 「ささめごと」は囁きごとのこと。前句の「やけど」を比喩で、恋の火傷(身を焦がす)とする。
 惚れていれば心地よい「ささめごと」も、熱が冷めてしまえば酒臭いだけで不快なものだ。思わず「酒臭い息吹きかけんじゃねーよ」と言いたくなる。
 十四句目。

   酒熟き耳につきたるささめごと
 魚をもつらぬ月の江の舟     越人

 月見の舟ですっかり酔っぱらって出来上がっちゃったのだろう。耳元で繰り言されるのは嫌なものだ。月見の舟も普段は漁に用いてるのだろう。今夜は魚は釣らない。
 十五句目。

   魚をもつらぬ月の江の舟
 そめいろの富士は浅黄に秋の暮  越人

 浅黄(あさぎ)は浅い黄色だが、同音で浅葱(あさぎ)というと薄い藍色になる。
 其角の住む江戸から見ると夕暮れの富士はシルエットになって浅葱の方だが。越人の住む名古屋側からだと夕日が当たって浅黄になる。どっちだろうか。
 「そめいろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蘇迷盧」の解説」に、

 「(Sumeru の音訳) 仏教の世界説で、世界の中心にそびえ立つという高山。そめいろの山。須彌山(しゅみせん)。
  ※秘蔵記(835頃か)「即蘇迷盧山也。蘇者妙也、迷盧者高也、故曰二妙高山一也」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「そめいろの富士は浅黄に秋のくれ〈越人〉」 〔釈氏要覧‐中〕
  [補注]「染色」の意にかけて用いることが多い。」

とある。補注の通り、ここでも「染色」と掛けている。
 十六句目。

   そめいろの富士は浅黄に秋の暮
 花とさしたる草の一瓶      其角

 この場合の「花」は比喩で、花に見立てた草を花瓶に生けたということ。草は花薄(はなすすき)であろう。
 花薄では正花にはならないが、草を正花に見立てるということで、ぎりぎりで「にせものの花」にする。
 十七句目。

   花とさしたる草の一瓶
 饅頭をうれしさ袖に包みける   其角

 この時代の「を」は「に」だと思って読んだ方が良い場合がある。
 饅頭を貰って袖に入れると、嬉しさを袖に包んでいるかのようだ。前句の草を生けても花(桜)の花瓶だ、という心に繋がりを感じる。
 十八句目。

   饅頭をうれしさ袖に包みける
 うき世につけて死ぬ人は損    越人

 饅頭一つでも人は幸せになれる。死ぬのは損。死んで花実の咲くものか。
 二表、十九句目。

   うき世につけて死ぬ人は損
 西王母東方朔も目には見ず    越人

 西王母東方朔はともに謡曲『東方朔』に登場する。不老不死の桃の実を皇帝に捧げる。

 「抑も是は、仙郷に入つて年を経る、東方朔とは我事なり。ここに崑崙山の仙人西王母といへる者、三千年に一たび花咲き実なる桃を持つ。かの桃実を度度食せしその故に、齢すでに九千歳に及べり。その桃実を君に捧げ申さんとの契約あり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.10075-10086). Yamatouta e books. Kindle 版. )

というお目出度い話だが、残念ながら西王母も東方朔も伝説上の仙人で誰も見たものはない。永遠の命を求めず、生きている間を精いっぱい楽しもう。
 二十句目。

   西王母東方朔も目には見ず
 よしや鸚鵡の舌のみじかき    其角

 まあ要するに不老不死なんて話は嘘だということで、ましてそれを信じさせようと広める人の舌は短すぎて、そんなもんに誰も騙されませんよ、ということ。
 実際には鸚鵡に舌はない。あくまで比喩。
 二十一句目。

   よしや鸚鵡の舌のみじかき
 あぢきなや戸にはさまるる衣の妻 其角

 日本には野生の鸚鵡はいないので(最近は野生化したインコがいるが)、鸚鵡は「籠の鳥」のイメージで良いと思う。
 着物の端が戸に挟まって身動きできないうえ、助けを呼んでいるのに誰も聞いてくれない。
 二十二句目。

   あぢきなや戸にはさまるる衣の妻
 恋の親とも逢ふ夜たのまん    越人

 こっそり夜這いに来たが、着物の端が戸に挟まって身動きが取れなくなった。親でもいいから出てきてくれ。
 二十三句目。

   恋の親とも逢ふ夜たのまん
 ややおもひ寐もしぬられずうち臥て 越人

 「やや」は「やや子」のことであろう。赤ちゃんのこと。
 赤ちゃんのことで悩んで夜も眠れなくなったら、夫の親とも相談したい。
 二十四句目。

   ややおもひ寐もしぬられずうち臥て
 米つく音は師走なりけり     其角

 「米搗く」は精米作業で、臼で搗く。夜中に米搗く音で赤ちゃんが目を覚ます。

0 件のコメント:

コメントを投稿