今日も朝から曇りで、きょうは荏田劔神社へ行った。
昨日はテレビで『鬼滅の刃』無限列車編を見た。機関車はハチロクのデフのないタイプで、青梅鉄道公園のハチロクがモデルらしい。客車はシングルルーフでベンチレーターがないので、あれっと思った。屋根の上での戦闘を意識したオリジナルらしい。
それではまだ秋も続くので、秋の俳諧、『阿羅野』の其角・越人両吟、「落着に」の巻を読んでみようと思う。これだと一応『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注釈がある。
まずは発句。
翁に伴なはれて来る人のめづらしきに
落着に荷兮の文や天津雁 其角
落着(おちつき)は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「落着・落付」の解説」に、
「① 移り動いていたものがとどまること。また、その場所。たどりつく所。行く先。
※玉塵抄(1563)二九「下の句をのせぬほどにをちつきしれぬぞ」
② 正式の来訪者に最初に出す食事。婚礼のとき、嫁が婚家についてまず食べる軽い食事や吸い物。→落着雑煮(おちつきぞうに)。
③ 宿屋、会場などに行き着いてまず飲食すること。また、その飲食物。転じて、茶を飲む時にそえる菓子類。茶うけ。
※新撰六帖(1244頃)二「東路やむまやむまやのおちつきに人もすすめぬ君がわりなき〈藤原光俊〉」
④ 住居や職などがきまって生活が安定すること。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)鄙「まさかの時は見捨じとの詞をたのみに落着(オチツキ)慥と安堵して」
⑤ 事件などが治まること。物事の解決。落着(らくちゃく)。「社会がおちつきをとりもどす」
⑥ 心配、疑問などが消えて心が安まること。また、態度やことばなどがどっしりしていること。物事に動じないように見える様子。
※俳諧・発句題叢(1820‐23)秋「落着の見えて餌拾ふ小鳥哉〈鶯笠〉」
⑦ 判断や議論などが最後にある点にゆきつくこと。
※女工哀史(1925)〈細井和喜蔵〉一六「容易にその説の落ち着きを見ないのであるが」
⑧ ゆれ動いたりしていたものがしずまること。特に、相場が激しく変動した後に安定すること。〔新時代用語辞典(1930)〕
⑨ 物事のおさまりぐあい。物のすわりぐあい。安定。
※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉三「何処(どこ)か仮衣(かりぎ)をしたやうに、恰当(そぐ)はぬ所が有って、落着(オチツキ)が悪かったらう」
⑩ 表現、色合いなど調和がとれて穏やかな様子。「おちつきのある色」
とある。①が元の意味で、後のはその拡張だろう。ここでは元の意味で、たどり着いたところで荷兮の文や、ということで良いのではないかと思う。
句は「天津雁の落着に荷兮の文や」の倒置で、ここでの客人の越人を天津雁に喩える。
これに対して越人の脇は、
落着に荷兮の文や天津雁
三夜さの月見雲なかりけり 越人
姨捨山の旅を思い出し、三夜に渡って雲もなく月見ができた、ラッキーな天津雁です、といったところか。
ところで、芭蕉の『更科紀行』に、
さらしなや三よさの月見雲もなし 越人
の句がある。どっちの句が先かという問題にもなる。
発句が先だということになると、越人は既に詠んだ句を使い回したということになる。さすがにそれはないだろう。となると、この脇の句を芭蕉が見て、発句にしたらと提案したものの、『阿羅野』にこの歌仙が載ったことから公開することもなく、最終的に遺稿となった『更科紀行』に記されているのが発見された、と見た方が良いだろう。
『更科紀行』が公刊されたのは岩波文庫の『芭蕉紀行文集付嵯峨日記』(中村俊定校注、一九七一)によると岱水編『きその谿』(宝永元年序)だという。真蹟草稿に比べて本文に多少の異同があり、巻末の句数も少ないという。
真蹟草稿には越人の句は姨捨山の所ではなく、
あの中に蒔絵書きたし宿の月 芭蕉
桟やいのちをからむつたかづら 同
桟やまづおもひいづ駒むかへ 同
霧晴れて桟はめもふさがれず 越人
さらしなや三よさの月見雲もなし 同
の順に記されている。『きその谿』の方はまだ見ていない。
その後の定本となっている宝永六年(一七〇九年)刊乙州編『笈之小文』所収の『更科紀行』では姨捨山と題して、
俤や姨ひとりなく月の友 芭蕉
いざよひもまださらしなの郡哉 同
さらしなや三よさの月見雲もなし 越人
という並びになっている。真蹟草稿だと「三よさ」は名月までの三夜ということになり、定本だと姨捨山の十五夜、まだ更科の十六夜(いざよい)と来て、その次の十七日も含めて「三よさ」ということになる。これは句の演出上の問題で、越人の句をより効果的に見せようという配慮と思われる。元々この句の「三よさ」がいつのことだったかとは関係ない。
なお、元禄九年刊史邦編の『芭蕉庵小文庫』に「更科姨捨月之辨」という俳文があり、そこには「俤や」の句と「いざよひも」の句のみで、越人の句はない。
第三。
三夜さの月見雲なかりけり
菊萩の庭に畳を引づりて 越人
旅体から庭の情景に転じる。月を見るためにわざわざ庭に畳を引きずり出すところに取り囃しがある。
四句目。
菊萩の庭に畳を引づりて
飲てわするる茶は水になる 其角
菊萩に見とれて飲み忘れた茶は、いつの間にか冷めて水のようになっている。
抹茶ではなくこの頃広まった隠元禅師の唐茶(煮出し茶)であろう。
五句目。
飲てわするる茶は水になる
誰か来て裾にかけたる夏衣 其角
茶を飲んでいるうちに寝てしまったのだろう。茶は冷めていて、裾には夏衣が掛けてある。
六句目。
誰か来て裾にかけたる夏衣
歯ぎしりにさへあかつきのかね 越人
酔っ払って寝てしまったのだろう。夏衣を掛けてくれたのは良いが、隣で歯ぎしりする奴は許せない。そうこうしているうちに暁の鐘が鳴って、助かったという気分になる。
初裏、七句目。
歯ぎしりにさへあかつきのかね
恨みたる泪まぶたにとどまりて 越人
逢っても傷つけあうばかりで、男はさっさと寝て歯ぎしりしていて、眠れずに涙流す夜だったが、暁の鐘を聞いて別れを決意すると涙もまぶたに留まり、流れ落ちることもなくなった。
八句目。
恨みたる泪まぶたにとどまりて
静御前に舞をすすむる 其角
静御前は頼朝と政子に勧められて鶴岡八幡宮で舞を舞う。義経との仲を引き裂かれた恨みに涙がこぼれそうになるが、それをぐっとこらえて舞い続ける。
九句目。
静御前に舞をすすむる
空蝉の離魂の煩のおそろしさ 其角
「離魂(かげ)の煩(なやみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「影の煩」の解説」に、
「熱病の一種。高熱を発した病人の姿が二つに見え、どちらが本体でどちらが影かわからなくなるという。影の病。影。かげやまい。離魂病。
※俳諧・西鶴大句数(1677)四「思ひは月の影のわづらひ 此野辺にいかなる風の手つだひて」
とある。辞書では「煩」は「わづらひ」となっている。
ここでは特に病気が原因でなくてドッペルゲンガーが現れることをいう。言わずと知れた謡曲『二人静』の舞を指す。「空蝉の」は離魂の枕詞。
十句目。
空蝉の離魂の煩のおそろしさ
あとなかりける金二万両 越人
金二万両を失ったショックで、魂が抜け、離魂の煩になる。
十一句目。
あとなかりける金二万両
いとをしき子を他人とも名付けたり 越人
金二万両の借金を息子に残したくないので、他人だということにする。
十二句目。
いとをしき子を他人とも名付けたり
やけどなをして見しつらきかな 其角
火傷の跡の残った女の子は見ていて辛い。別人のように見える。
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