今日は明け方頃まで雨が降っていたが、6時には止んだんで、散歩に出た。
北は最近またロケットマン復活で、あんまりかまってもらえなかったからな。アメリカはアフガニスタンよりもはるかに長い戦争がまだ終わってない。
夕方も晴れていて、久しぶりに月を見た。半月よりも少し膨らんでた。
それでは「重々と」の巻の続き。
十三句目。
雨はらはらと郭公聞
かりそめに尻をまくるも川渡リ 立圃
「かりそめ」は少しの間という意味。今は「形だけ」の意味で使うことが多いが。
川渡りで膝から上の水量があったのだろう。雨で若干増水していたか。
十四句目。
かりそめに尻をまくるも川渡リ
煩ふてさへ西行は哥 桃青
西行の川渡りというと、『西行物語』の武士の乗る船に便乗したが、人数が多いというので「あの法師下りよ、下りよ」と言われたが渡し舟ではよくあることとたかをくくっていたが、鞭で打たれて血まみれになって下船させられたという話が浮かんでくる。本当かどうかは知らないが。
仕方がなく尻をまくって渡ったということか。渡れるなら最初から歩いてそうだが。
十五句目。
煩ふてさへ西行は哥
秋までは畑に作るしろ茄子 立圃
白茄子はウィキペディアによると宮崎安貞の元禄十年刊の『農業全書』にも「紫、白、青の三色あり、又丸きあり長きあり」の記述があるという。西行も草庵隠棲の時は茄子を栽培していたか。
十六句目。
秋までは畑に作るしろ茄子
花火とぼして星祭也 桃青
元禄の頃はまだ両国川開きの花火はなかった。ウィキペディアによると、万治二年(一六五九)には両国橋が完成したときに、鍵屋弥兵衛が葦のくだの中に火薬を練って入れた玩具花火を売り出し、大型の打ち上げ花火への道を開いたとも言われている。ただ、後に名物になる両国川開きの花火は享保十八年(一七三三)からだとされている。
ただ、お盆に花火を打ち上げる句は元禄十二年刊等躬編の『伊達衣』に、
盆前後
落る時川さへ匂ふ花火哉 岩翁
名を呼で買ん去年の花火売 亀翁
の句がある。鍵屋は万治の頃からあったので、「鍵屋」の掛け声はあったのかもしれない。
両国の花火の句も元禄十二年刊凉菟編の『皮籠摺』に、
両国橋
人声を風の吹とる花火かな 凉菟
の句がある。花火が上がると、橋を渡る人が一瞬静かになる。
他にも、
扇的花火たてたる扈従かな 其角
橋杭の股に見得たる花火哉 沾洲
の句が収録されている。的を立てるのはロケット花火のようなものがあったからか。
其角の『五元集』に、
舟興
壱両が花火間もなき光哉 其角
の句があるから、鍵屋の花火は金のかかる遊びだったのだろう。
ただこれらの発句に対して、ここでの桃青の付け句はお盆に花火を灯すだけで、これと言った取り囃しがないのが淋しい。
十七句目。
花火とぼして星祭也
傾城と夜着の中から袖の月 立圃
夜着は衣偏の黄という字を用いている。
遊女と一夜を過ごして、お盆の夜の月を見る。この場合は線香花火か。延宝八年刊自悦編の『洛陽集』に、
奥方や花火線香せめて秋 梅水軒
の句がある。今日のような線香花火かどうかはわからない。
十八句目。
傾城と夜着の中から袖の月
狐の歩行く足音も屋根 立圃
傾城から遊女に化けた狐がいるという連想か。
二表、十九句目。
狐の歩行く足音も屋根
魚籃寺と言へば其名も醒き 桃青
醒きは「腥(なまぐさ)き」の間違いだと『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注にある。
魚籃寺は今の港区三田にある。ウィキペディアには、
「元和3年(1617年)頃に豊前国中津にある円応寺に称誉が建立した塔頭である魚籃院を前身とする。 寺の創建は承応元年(1652年)称誉が現在の地に観音堂を建て、本尊をここに移したことに始まる。」
とあり、
「本尊が「魚籃観世音菩薩」(空海作と口碑に残る頭髪を唐様の髷に結った乙女の姿をした観音像)であることから。 それは中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたものである。」
とある。狐との縁は特にわからない。
二十句目。
魚籃寺と言へば其名も醒き
附木売まで濡る白雨 立圃
「濡」はさんずいに雪の字になっているが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に従い濡の間違いとする。
附木はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「付木」の解説」に、
「② 杉や檜(ひのき)などの薄い木片の一端に硫黄を塗りつけたもの。火を移し点じる時に用いる。ゆおうぎ。
※言継卿記‐天文二年(1533)一二月二九日「つけ木六束如例年」
※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)六「ひばちの火をつけ木にうつし」
とある。
附木売は何か魚籃寺に関係あるのか、よくわからない。
二十一句目。
附木売まで濡る白雨
お袋の部屋に植たるわすれ草 桃青
わすれ草は萱草のことで夏にオレンジの百合に似た花をつける。年取った母もやや物忘れがひどくなったということを、植えてある忘れ草に重ね合わせたか。
「お袋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御袋」の解説」に、
「〘名〙 (「お」は接頭語) 母親を敬っていう語。また、母親を親しんで呼ぶ語。現在では、他人に対してへりくだって自分の母をいう場合が多い。⇔おやじ。
※康富記‐享徳四年(1455)正月九日「今日室町御姫君御誕生也、御袋大舘兵庫頭妹也」
※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉鉄道国有「拙父(おやぢ)と阿母(オフクロ)と竊々(こそこそ)相談して」
[語誌](1)本来、母親の敬称で、高貴な対象にも使用したが、徐々に待遇価値が下がり、近世後期江戸語では、中流以下による自他の母親の称となった。
(2)「随・皇都午睡‐三」に「廿より卅二三才迄を中年増と云。夫より上を年増と唱へ極年をお袋とも婆々アとも云」とあるように、特に老女や老母を指すこともあった。
(3)現在では、謙称として、他人に対してへりくだって自分の母を言うことが多い。→おやじ」
とあり、今日のニュアンスとはやや違う。『炭俵』の「むめがかにの巻」の続十二句目に、
預けたるみそとりにやる向河岸
ひたといひ出すお袋の事 芭蕉
の句がある。
二十二句目。
お袋の部屋に植たるわすれ草
沙石を読で聞す不可思議 立圃
沙石集はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「沙石集」の解説」に、
「鎌倉時代の仏教説話集。「させきしゅう」とも読む。無住一円著。 10巻。弘安2 (1279) 年起筆,同6年脱稿。その後もたびたび加筆訂正を行なったので,広略種々の伝本がある。著者は臨済宗東福寺派の高僧で,耳に近い説話によって教理を説き,人々を仏道におもむかせることを目的とした。広い知識によって経典,漢籍あるいは先行の説話集などを縦横に引用するが多年尾張国木賀崎の長母寺にあって民衆を教化した著者は,直接に見聞した同時代の話や,民間に伝わった話を取上げ,文章も俗語を多用して平易。なかでも数多くの笑話風の話は狂言や咄本 (はなしぼん) の材料とされ,落語の源流となった。物語を狂言綺語とみる中世仏教者の立場にあるが,懐古趣味によって編集された以前の説話集に比べて,時勢に対する積極的な態度は高く評価される。」
とある。
母から読み聞かされた沙石集のことを思い出す。わすれ草は植えたけど、あの時の不可思議な物語を忘れてはいない。
二十三句目。
沙石を読で聞す不可思議
精進もけふは延さす煤はらひ 桃青
煤払いの日がいつも命日と重なってしまうが、煤払いは延期しない。
二十四句目。
精進もけふは延さす煤はらひ
都鳥まで見る江戸の舟 立圃
都鳥はユリカモメのことで、隅田川の辺りには今でもたくさんいる。隅田川は寛永以前は武蔵と下総の境界でもあった。
年の暮れの隅田川はたくさんの舟が行き交う。
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