今日は朝から晴れた。ご近所散歩の方は一万歩を越えた。夕方には昨日より少し膨らんだ月が見える。
日本共産党はあれがデマだというなら、速やかに党の綱領の中に「暴力革命は未来永劫これを行わない。」と明記すべきだと思う。曖昧さが残る限り、同じことを何度も蒸し返されることになる。
「デマだ」と言うだけだと、暴力革命が綱領に記されているというのがデマだというだけで、綱領には記されてないが暴力革命を肯定しているという疑惑を残すことになる。選挙前にこの疑惑を晴らすべく、あらゆる形で暴力革命を放棄していることを宣伝してもいいのではないかと思う。今のままだと圧力をかけたという悪いイメージが広がることになる。
いずれにせよ、「暴力革命は未来永劫これを行わない。」とたったそれだけのことを言うだけで、問題はすべて片付く。なぜそれをしないのかが不思議だ。
あと、「いざよひは」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「重々と」の巻の続き。挙句まで。
二十五句目
都鳥まで見る江戸の舟
三つ輪ぐむ老の姿も志賀之助 桃青
「三つ輪ぐむ」は広辞苑無料検索に「⇒みずはぐむ(瑞歯)」とある。「みずはぐむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「瑞歯ぐむ」の解説」に、
「〘自マ四〙 (「みずわく(ぐ)む」「みつわく(ぐ)む」とも) (老人に「瑞歯②」がはえる意か) きわめて年をとる。はなはだしく年老いる。
※大和(947‐957頃)一二六「むばたまのわが黒髪はしらかはのみつはくむまでなりにけるかな」
[補注]語義については、「瑞歯(みづは)ぐむ」のほか、歯が上下三本だけ抜け残る「三歯組む」とする説、足腰の三重に折れかがまる形容「三輪(みつわ)組む」とする説、関節のがたがたになる形容「支離(みつわくむ)」とする説、また、「大和物語」の檜垣嫗の歌が「水は汲む」の意だけであったのが老人のさまをいうと誤解されて、さまざまの語源説が付会されたとする説などがあり、表記についても「みつはくむ」「みつわくむ」のふたつが入りまじっている。」
とある。
志賀之助はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「明石志賀之助」の解説」に、
「架空の初代横綱。江戸中期に刊行された『関東遊侠(ゆうきょう)伝』に出てくる寛永(かんえい)年間(1624~1644)の力士で、実在性を裏づける史料はない。のちに行司の伝書に記され、身長251センチメートルの巨人、宇都宮出身とされる。1895年(明治28)、第12代横綱陣幕(じんまく)久五郎が歴代横綱の系譜を作成し、明石を初代に据え、横綱力士碑を富岡八幡(はちまん)宮(東京都江東区)に建立した。講談でも江戸勧進(かんじん)相撲の開祖とうたい、ついに昭和になって黙認された。[池田雅雄]」
とある。実在かどうかについて、ウィキペディアには、
「明石によって最初に行われたとされる相撲に関する出来事や慣習も、全て後代の伝承や講談によるもので信憑性がかなり低く、さらには信頼できる資料では明石の実在すら確認されたことが無い。ただし、明石志賀之助のものとされる手形が遺されているほか、「上山三家見聞日記」にて1661年(寛文元年)に山形藩主の前で相撲を取った記録が記されていることなどから、実在説も根強い。」
とある。「上山三家見聞日記」は二〇一六年の産経新聞の記事によるもので、この記事では、
「松尾芭蕉の弟子、宝井其角(きかく)の「志賀之助男盛りの春立て」という句や、元禄12(1699)年の還暦引退相撲などから、寛永年間ではなく、寛文年間に横綱になったと推測している。「この時代、還暦まで取った力士もいるが、寛永説では現役が約70年になり、やはり寛文が正しいだろう」
とある。桃青のこの句が本物なら、志賀之助の実在を証明するものになるのだが。
其角の句は元禄十年刊其角編の『末若葉』に、
行露公あたみへたゝせ給ふに餞の句奉るへき
よし承りて観遊の御駕籠にみそなはし侍る
脇息にあの花折れと山路かな 其角
あたみより御湯のよしにて
吟味仕つめた馬士は鶯 行露
志賀之介男盛の春立て 角
とある。
餞別として贈った「脇息に」の発句に、行露が熱海で脇を付けて贈ってきたので、それに第三を付けた句だったようだ。『続五元集』には、元禄九年の所に脇と第三だけがある。
脇息は脇に置いてもたれかかるための台で、発句は、熱海へ行ったら脇息にそこに咲いている桜の花を折って飾って、ゆっくり休むといい、というような意味だろう。花を折って自分の脇息に持ってこいという意味にも取れる。
それに対して行露は、其角さんのためにどの枝を折ろうかとさんざん吟味し詰めた馬士(自分は其角さんの馬士のようなもの、という意味か)の役は、鶯に任せます、ということか。まあ、ゆっくり休んでます、という意味になる。
第三は発句の心を去って、鶯の鳴く季候に馬士を相撲取り志賀之介のお付の者として展開する。ただ、志賀之介を乗せる馬って、重くて大変だろうな。そりゃ馬は選ばなくてはならない。
前に、延宝七年秋の「見渡せば」の巻四十八句目の、
腰の骨いたくもあるる里の月
又なげられし丸山の色 似春
を読んだとき、丸山仁太夫という寛文から延宝の頃に活躍した力士がいたが、ここでは前句が里相撲で、また投げられて腰の骨を痛めてるのだから、似せ物の自称丸山何某であろうと解釈した。
俳諧はドキュメントではなく、あくまで噂話のネタにすぎないから、其角の第三も単に有名な相撲取りの代名詞として志賀之介の名を出しただけではないかと思う。
半ば伝説と化した志賀之介がいる一方で、志賀之介を名乗る偽物もたくさんいたのではないかと思う。昔は今みたいに相撲が全国中継されてたわけではないから、だれがどんな相撲を取っているかなんて、ほとんどの人は噂でしか知らなかったと思う。
二十六句目。
三つ輪ぐむ老の姿も志賀之助
またけまたけと戸を叩く風呂 立圃
年寄りだから風呂桶が跨げないので、「跨がせろ」と人を呼んでいるということか。
二十七句目。
またけまたけと戸を叩く風呂
布袋とは弥勒𦬇の化身也 桃青
𦬇は「ぼさつ」と読む。布袋はウィキペディアに、
「「景徳傳燈録」によると布袋は死の間際に
彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)
—布袋和尚、景徳傳燈録
という名文を残した。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったという。」
「中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗大本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿に四天王や韋駄天と共に安置されている布袋形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は、中国において「布袋和尚[4](Bùdài héshàng)」の呼称では、理解されづらく、一般には「弥勒(Mílè)」と呼ばれている。それを受け、西欧人にマイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる。」
とある。
布袋さんも太っているから風呂桶の縁をまたぐのが大変だが、それだと打越の志賀之助と被る所がある。
二十八句目。
布袋とは弥勒𦬇の化身也
鯉のうろこは三十六員 立圃
コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三十六鱗」の解説」に、
「さんじゅうろく‐りん サンジフ‥【三十六鱗】
〘名〙 魚「こい(鯉)」の異名。
※滑稽本・八笑(1820‐49)四「六々三十六鱗(ロクリン)の、丈ある鯉の味噌煮(こくしほ)は美味(うまき)を知らする可笑(をかしみ)に」 〔夢渓筆談‐書画〕」
とある。鯉のことを三十六鱗と言っていた。それを歌仙の三十六韻に掛けている。
中国の開運グッズを見ると布袋と鯉が組み合わされてるのを見るが、中国ではそうなのか。まあ、どちらも目出度いことには変わりないが。
二十九句目。
鯉のうろこは三十六員
仙人に成る事もがな秋の月 桃青
鯉は龍になると言われている。鯉が龍になれるなら、人も仙人になれるか。
三十句目。
仙人に成る事もがな秋の月
その原々はみな木賊苅 立圃
木曾の園原は謡曲『木賊』の舞台でもある。ただ、仙人に木賊、何の関係があるのか。
延宝七年秋の「見渡せば」の巻十三句目に、
みがかれ出るお広間の月
木賊苅山はうしろに長袴 桃青
の句があり、延宝六年の桃青・杉風両吟「色付や」の巻の四十三句目にも、
木賊にかかる真砂地の露
その原やここに築せて庭の月 杉風
の句がある。形だけ真似た感じがする。
二裏、三十一句目。
その原々はみな木賊苅
むらさきのみのりてみする朝ぼらけ 立圃
「むらさき」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「紫葛のこと、紫葛は山葡萄」とある。園原では山葡萄が実っていてもおかしくはない。その場也その季也、と支考なら言う所だろう。
三十二句目。
むらさきのみのりてみする朝ぼらけ
此川ごえはうき人に逢ふ 桃青
これは七夕の俤であろう。
三十三句目。
此川ごえはうき人に逢ふ
みちのくの千引の石もこころあれ 立圃
「千引(ちびき)の石」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「千引の岩」の解説」に、
「千人で引かなければ動かせないような重い岩石。ちびき。ちびきいわ。
※古事記(712)上「最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引石(ちびきのいは)を其の黄泉比良坂に引き塞へて」
※万葉(8C後)四・七四三「吾が恋は千引乃石(ちびきノいは)を七(なな)ばかり首に繋(か)けむも神のまにまに」
[補注](1)「十巻本和名抄‐一」「観智院本名義抄」などにもチビキノイシの形で見え、従来のチビキノイハの訓も再検討する必要がある。
(2)「引」を長さの単位とみなし、直径「千引」の大きな岩とする説もある。」
とある。これとは別に多賀城に千引石の伝承があるらしい。ネット上の野崎準さんの「千引石と登天石―忘れられつつある石の伝承について―」に、
「『室町時代物語大成』第九に 「つぼの碑」 という絵巻物になった物語が掲載されている」とあり、その坂上田村麻呂が記したという石を他国に動かそうとしているうちにやがて石の精が宿り、それが両親に死別された女のところにあらわれ、千人で引いても動かない石を坂を車が下るように簡単に動かせるようにしてやると、今でいうチートのような能力を授けた。女は石を動かし、その功績で所領を賜り、国司の妻として幸せに暮らしたとさ、目出度しめでたしとなる。
句の方は特にこの物語とも関係なく、憂き人を動かない(振り向いてくれない)石のような人としての付けになる。
三十四句目。
みちのくの千引の石もこころあれ
かく捨し世を誰ひろふ恋 桃青
隠者が岩窟などの住むのは珍しいことではない。だが、ここでも「千引の石」を動かない頑なな心として、この僧は恋を拾ったりしない、とする。
三十五句目。
かく捨し世を誰ひろふ恋
花も名になるてふ加藤壱歩殿 立圃
加藤壱歩は人名のようだが、実在したのか架空の名前なのかはよくわからない。やはり堅物の名として、花も名になるように、恋も男の勲章だという所か。
挙句。
花も名になるてふ加藤壱歩殿
能はじめより高砂の松 執筆
謡曲『高砂』は脇能物で、五番立ての最初に演じられる。前句の加藤壱歩殿を能役者としたか。
最初に立圃のことで、中村注によると能役者服部栄九郎(宝生家十世の家元)二世立圃というのがいて、それだと芭蕉晩年の両吟と思われるという話をした。
これまで読んで、この一巻は延宝の頃の風でもなければ晩年の風でもないというのは、分かっていただけたと思う。この一巻は芭蕉の時代の付け筋もなければ、当時の生活実感に根差したリアルな笑いの世界がまったくない。
ただ昭和の頃の研究者にはこの識別は困難だったと思われる。連句の研究はまだ糸口に着いたばかりだ。
まあ、こう言っちゃなんだが、未だに写生説に縛られて、単に景色を付けただけの遣り句が名句だと思ってたり、隠者高士が出て来ると良い句だと思ってたり、そのレベルの人が多いのではないかと思う。
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