ギニアのことをちょっと調べようとしたら、コンテとコナテとコンデがいて紛らわしい。要するに大統領当選→三選への改憲→不正に勝利→軍事クーデターという流れが定着している所なのか。アルミニウム鉱山は影響ないみたいだ。タイのクーデターみたいなものか。
ワクチンパスポートは、アレルギーなどで打ちたくても打てない人と、デマや主義主張で打たない人とを一緒くたにしないでほしい。やむを得ぬ事情のある人は保護しなくてはいけないが、そうでない人は自らの意思でコロナを広めることを選択しているのだから、差別されても自己責任だ。
マスクの時もそうだったが、一部の人を引き合いに出して全部やめさせようとする、「一人でも蕎麦アレルギーの人がいたら蕎麦を食うな」の論理は通用しない。(その人だけ別の者を食えば済むもので、一部の例外を特例ということで救済措置を講じれば済むことだ。)
eスポーツで女性のプロが少ないというニュースがあったが、乙女ゲーを種目に加えれば増えるんでないかい。
それでは『笈日記』に戻ろう。
「秋の夜を打崩したる咄かな
此句は寂寞枯槁の場をふみやぶりたる老後
の活計なにものかおよび候半とおのおの
感じ申あひぬ
車庸亭
面白き龝の朝寐や亭主ぶり 翁」(笈日記)
「秋の夜を」の句は九月二十一日車庸亭での半歌仙興行の発句で、芭蕉は病床に臥すことも多く、その合間にかろうじて興行をこなす状態だった。そんな痩せ細りやつれ切った芭蕉の姿に秋の長雨となれば、門人たちの気持ちも沈みがちになる。
せめて興行の時くらいは悪いことはみんな忘れて、みんなで楽しい話をして、秋の夜の寂しさを打ち崩そうではないか、という挨拶だった。
興行の方は前に読んだものが鈴呂屋書庫にあるので、そこの「秋の夜を」の巻のところをよろしく。十三句目の、
薄がなくば野は見られまい
鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損 惟然
の句は重陽の夜に奈良の鹿の句を詠んだことを思い起こし、あの時鹿がいなかったら、と思ったのかもしれない。
車庸亭
面白き龝の朝寐や亭主ぶり 芭蕉
の句は二十一日の「秋の夜を」の興行と、次の二十六日の「此道や」の巻の半歌仙興行の間に詠んだ句であろう。
興行の後車庸亭に泊まったのだろう。朝ゆっくり寝てれば、気分はここの亭主だという句。車庸のおもてなしへの感謝の言葉だ。
「此道や行人なしに龝の暮
此二句の間いづれをかと申されしに
この道や行ひとなしにと獨歩したる
所誰かその後にしたがひ候半とて是
に所思といふ題をつけて半歌仙
侍り爰にしるさず」(笈日記)
この句については2017年11月9日の俳話にも書いたので重複することになる。
「この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、
人声やこの道かへる秋のくれ 芭蕉
の句で、取り残された自分を描いたのが、
この道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句になる。
人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。
人声やこの道かへる秋のくれ 芭蕉
私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
それに対し、
この道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。」
「秋風や軒をめぐつて秋暮ぬ
是はあるじの男の深くのぞみける
よりかきてとゞめ申されし」(笈日記)
これも先の続きなら、車庸に求められての句であろう。
秋風は秋の初めの「風の音にぞ驚かれぬる」の心だが、秋風はその後も秋の間ずっと吹き続け、今いるこの家の軒やほかの家の軒、日本全国あまねく巡りながら秋は暮れて行く。秋風は万物に吹く。そういう思いだったのであろう。
「旅懷
此秋は何で年よる雲に鳥
此句はその朝より心に籠てねんじ申されしに
下の五文字寸々の腸をさかれける也。是は
やむ叓なき世に何をして身のいたづらに老ぬらん
と切におもひわびられけるがされば此秋は
いかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て
後は明暮になやみ申されしが京大津の間を
へて伊勢の方におもむくべきかそれも人々
のふさがりてとゞめなばわりなき心も出さぬべし。と
かくしてちからつきなばひたぶるの長谷越すべき
よししのびたる時はふくめられしにたゞ羽を
のみかいつくろひて立日もなくなり給へる
くやしさをいいとゞいはむ方なし」(笈日記)
これも2021年3月25日の俳話と重複する。
「支考は旅を続けたくて旅のできない師の状態を、羽を搔い繕うだけの鳥にたとえ、その悔しさを雲に託したというふうに解釈している。
筆者は前に別の所で、
わが心誰にかたらん秋の空
荻に夕風雲に雁がね 心敬
此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉
の類似から、雲は鳥と語るが我には寄るべき友がいない、というふうに解釈した。」
両方を合わせて解釈するなら、鳥は空を飛び回り雲を友とするというのは、『奥の細道』の「片雲の風にさそはれて」の一節を思い起こさせる。その片雲を友とすることもできずに寝床に伏せっている我が身を思い、「何で年よる」だったのではないかと思う。
支考の「たゞ羽をのみかいつくろひて立日もなく」の心と違うものではない。
「白菊の目にたてゝ見る塵もなし 翁
是は園女が風雅の美をいへる一章
なるべし。此日の一會を生前の名殘
とおもへばその時の面影も見るやうに
おもはるゝ也。」(笈日記)
「風雅の美」なんて言ってしまうと、園女さんの容姿の美はどうなんだということにもなるが、まあ興行の席での珍しい女性の同座に、そういういじりあったのではないかと思う。女性の発句は多くても、興行への参加の機会はあまりなかった。
「生前の名殘」とあるように、芭蕉の最後の俳諧興行となった。
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