2021年9月10日金曜日

 今朝までは何でもなかったが、昼頃から38.5度(セ氏)の熱が出た。熱以外に何の症状もないので、副反応に間違いない。夕方には多少収まった。
 fm横浜のKiss & Rideという番組でやってた俳句。

   初デートでいったら胸キュンな場所
 露の宿昔忘るゝ土手チョメリ   龍口健太郎
   クローバー
 山下の草露白幸チョケリ     仝
   気合い
 爽やかに電波に乗りけり他局前  長友愛莉
   ストリート
 駅中で秋雨奏でるピアノかな   仝

 チョメリ、チョケリは明確な意味はないが、チョメは×で伏字にする言葉などをチョメチョメと言ったりするので、何かそういうものを想像させようという意図ではないかと思う。英語のxxxとは特に関係ない。
 この句は大廻しで、切れ字がないが切れている。「露の宿(に)昔忘るゝ土手チョメリ(や)」とすれば、しっかりと発句の体を成す。
 チョケリもチョメリとの微妙な差異を持つ言葉だが、基本的に明確な意味はない。いずれも俳言になり、取り囃しの新味は十分だ。「山下」は横浜の山下公園のこと。
 この句は「山下の草露白(し)幸チョケリ」で切れている。
 「爽やかに」の句は「他局前(で)爽やかに電波に乗りけり」の倒置。「けり」という強い断定の切れ字は使い方が難しいが、ここは気合で乗り切っている。
 「駅中で」の句は駅中のストリートピアノの演奏を詠んだ句で、季節柄秋雨の音に賦す。「かな」の切れ字の使い方が良い。
 最近のテレビでやっている俳句番組でも、これだけきちんと切れ字が使えている例は稀だ。
 あと、元禄五年冬の「打よりて」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 『笈日記』の「難波部」はここから先は冬になるので、その前に「湖南部」を読んでおこうと思う。

  「元禄三年の秋ならん木曽塚の旧草にありて
   敲戸の人々に對す。
 草の戸をしれや穂蓼に唐がらし  翁
 稻すずめ茶の木畠や迯どころ」(笈日記)

 元禄三年は七月二十三日まで幻住庵で過ごした。木曽塚の無名庵の行くのはその後になる。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、幻住庵を去った跡しばらく大津に滞在し、それから木曽塚に行ったようだ。ここで『幻住庵記』の執筆が行われた。九月中旬には堅田に移る。
 二句はこの時の句と思われるが、「稲すずめ」の句は元禄四年の説もあり、岩波文庫の『芭蕉俳句集』には四年の所にある。

 草の戸をしれや穂蓼に唐がらし  芭蕉

 この句は「唐がらし(と)穂蓼に草の戸をしれや」の倒置になっている。
 穂蓼は宗因独吟「口まねや」の巻八十九句目に、

   川原の隠居焼塩もなし
 月にしも穂蓼斗の精進事     宗因

や、『春の日』の「春めくや」の巻二十七句目に、

   念仏さぶげに秋あはれ也
 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして   重五

の句もあり、草庵での質素な精進の食卓にふさわしい。蓼穂ともいい、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「たでほ」とも) 蓼の穂。特有の辛味があり塩漬にして食用にする。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「海月桶(くらげをけ)のすたるにも蓼穂(タデホ)を植ゑ」

とある。

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉     其角

の句もある。
 唐辛子は薬味として用いられたが、青唐辛子は食用にもされていた。元禄五年に、

   深川夜遊
 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

の句がある。

 稻すずめ茶の木畠や迯どころ   芭蕉

の句は、「稻すずめ(は)茶の木畠が逃どころや」の倒置。
 稲を食い荒らす害鳥でもあるスズメは、百姓に追払われると、隣の茶畑に逃げてくる。細かい枝の茂った茶の木の中に隠れてしまえば手が出せない。
 人間にとっては迷惑な鳥でも、スズメにしてみれば生きていかなくてはならない。そんな双方への共感のある「細み」の句と言えよう。
 元禄三年の冬、支考は京で「ひき起す」の巻の歌仙興行に同座している。

  「そののちは武の深川に有しが去年の秋
   文月の始ふたたび旧草に歸りて
 道ほそし相撲とり草の花の露
 木つゝきの入まはりけり藪の松  丈草
 蕎麥の花まちてやたてる岡の松  支考
   此二句も木そ塚の前境なるが藪の松
   岡の松とて阿叟もおかしがり申
   されしにそれも耳底の名殘とおも
   へば爰には記し侍る也。」(笈日記)

 次は芭蕉が元禄四年十一月に江戸に移り、元禄七年の閏五月にふたたび近江に来て、一度京の桃花坊の去来亭に滞在し、六月十五日に膳所に移った後の句になる。
 
 道ほそし相撲とり草の花の露   芭蕉

 相撲とり草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「相撲取草」の解説」に、

 「① 植物「すみれ(菫)」の異名。《季・春》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 植物「おひしば(雄日芝)」の異名。《季・秋》
  ※俳諧・笈日記(1695)上「道ほそし相撲とり草の花の露〈芭蕉〉」

とある。2017年8月22日の俳話でも触れているので重複するが引用しておく。
 
 「「相撲取草(すもうとりぐさ)」と呼ばれる草はいくつかある。子供が草を使ってどっちの草が強いかを競う遊びを草相撲といい、それに用いられる草はそう呼ばれるようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「兼三秋物」のところに「相撲草」の項目がある。

 相撲草 [和漢三才図会]野原湿地にあり。葉、地に布(しい)て叢生す。忍凌(じゃうがひげ)に似て微扁(ちとひらた)く、石菖に似て浅く、秋、茎を起(たつ)て嶺に穂をなす。青白色。細子あるべけれどもみえず。其茎、扁く強健、長さ六七寸。小児、茎を取て穂を綰(わげ)、結て繦(ぜにさし)の如くし、二箇を用ひ、一は其襘(むすび)めにさしはさみ、両人、茎を持て相引く。切たる方、輪(まけ)とす。(『増補 俳諧歳時記栞草』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.295)

 忍凌はジャノヒゲのことで、石菖はそのままセキショウで、それに似ているという。今日ではオヒシバのこととされている。
 ただ、オヒシバの穂に小さな花をつけるとはいうものの目立たないし、あまり花という感じがしない。そのため相撲取草はスミレではないかという説もある。スミレも花首を引っ掛けて遊ぶところからこの名前があるという。
 スミレは通常春のものだが、秋に帰り花を咲かすこともあり、そこであえて春の季語ではない「相撲取草」の名前で詠んだ可能性もある。「相撲」は秋の季語だ。」

 木つゝきの入まはりけり藪の松  丈草

 今では松くい虫防止のために、松林にキツツキ用の巣箱を設置したりしているという。特に呼ばなくても、昔からキツツキは松の木に来ていたのだろう。
 ここでは薮の松だから、手入れの行き届いてない松の木のようだ。

 蕎麥の花まちてやたてる岡の松  支考

 松と「待つ」を掛けるのは和歌以来のお約束とも言える。蕎麦畑は水路のない岡の上にあり、そこには松の木が立っている。
 木曽塚の周辺の景色を詠んだもので、薮の松に岡の松と松の句が被り、句合わせみたいになったことで芭蕉が喜んでたことが、支考にとっての芭蕉の生前の思い出となる。

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。いざよひは船を
   浮てさゞ浪やかた田にかへるとよめるその浦の
   月をなん見侍りける。路通がまつ宵に月
   をさだむる文あり支考が名月の泛湖の賦
   あり阿叟は十六夜の辨をかきて竹内氏の
   所にとゞむ。此三夜を月の本末と名づけて
   成秀楚江が二亭に侍り。文しげゝれば爰に
   しるさず。
   十四夜
 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通
 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考
   十五夜
 米くるゝ友を今宵の月の客    翁
 五器たらで夜食の内の月見哉   支考
   十六夜 三句
 やすやすと出ていざよふ月の雲  翁
 十六夜や海老煎る程の宵の闇
   その夜浮見堂に
        吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂」(笈日記)

 これは元禄四年の秋になる。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、十三日は木曽塚無名庵にいて、十四日は楚江亭で待宵の会があり、十五日に木曽塚無名庵で月見の会があり、十六日に堅田成秀亭で「安々と」の巻の歌仙興行が行われた。
 「路通がまつ宵に月をさだむる文」や「支考が名月の泛湖の賦」というのもあったようだが不明。「十六夜の辨」は『堅田十六夜之辨』で、鈴呂屋書庫の「安々と」の巻の発句の所に掲げてある。
 まずは十四夜で、

 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通

 月を待つ宵は浮かれるなと言っても無理だろう。まあ、あまり早くから酒が入って、月が登る頃にへべれけになっていても困るが。

 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考

 月を待つ間に飯を食ったり、互いに挨拶や談笑をしたりするが、結局月が登る頃にはみんな出来上がってしまう、ということだろう。
 十五夜。

 米くるる友を今宵の月の客    芭蕉

 『徒然草』の第一一七段に「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」とある。米をくれる友はその中でも最良の者だろう。
 あと、芭蕉の門人には洒堂や木節など医者が多い。木節は最後にお世話になることになる。知恵は、俳諧をやるくらいだからみんな持っているはずだ。

 五器たらで夜食の内の月見哉   支考

 人が大勢集まって、夜食の頃には食器が足りなくなる。前句を受けて言うなら米はあってもそれを盛る器がない、ということか。
 十六夜は「安々と」の巻の興行のあった日で、

 やすやすと出ていざよふ月の雲  芭蕉

はその発句になる。総勢十九人でのにぎやかな興行だった。
 十六夜の月が待つ程もなく出てきたのはいいが、すぐに雲に隠れなかなか姿を現さなかった。これをそのまま詠んだのがこの日の興行の発句だった。
 「いさよふ」はためらう、躊躇するの意味で、十六夜の月は日没からややためらうように遅れて出ることからそう呼ばれた。

 十六夜や海老煎る程の宵の闇   芭蕉

 芭蕉は伊賀藤堂藩の元料理人で、煎り海老も自ら作ってふるまったのだろう。
 煎るというのは、当時は油を引かずに直に鍋で炒めることが多かったからだろう。焦がさないように鍋を振るう、その手さばきが見せ場でもあったか。
 煎り牡蠣も芭蕉の好物で、これを作る時には鍋のガラガラいう音が外に聞こえたという。

   その夜浮見堂に吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂    芭蕉

 この句は『堅田十六夜之辨』の末尾にも「安々と」の句と並べられている。
 浮御堂は堅田の海門山満月寺の湖上に建てられたお堂で、橋でつながっている。ウィキペディアには「平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に『千仏閣』、『千体仏堂』とも呼ばれる。」とある。
 浮御堂の扉を開けて、月の光に照らされる千体仏の姿を見てみたい、というものだ。

  「おなじ年九月九日乙州が
      一樽をたづさへ來りけるに
 草の戸や日暮てくれし菊の酒   翁
   蜘手にのする水桶の月    乙州
   正秀亭初會興行の時
 月しろや膝に手を置宵の宿    翁
   萩しらけたるひじり行燈   正秀」

 九月九日は重陽で、乙州が酒を一樽差し入れに来る。

 草の戸や日暮てくれし菊の酒   芭蕉

 草の戸は木曽塚無名庵のことであろう。草庵で重陽の菊の酒を貰ったというだけの句だが、「暮て」と貰うの意味の「くれる」とをつなげて「暮てくれる」と反復するところに取り囃しがある。
 これに対し乙州は、

   草の戸や日暮てくれし菊の酒
 蜘手にのする水桶の月      乙州

と返す。蜘手(くもで)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蜘蛛手」の解説」に、

 「(ホ) 照明に用いた灯台、行灯(あんどん)の油皿を支える台。また、手水鉢や水桶などを載せる台。
  ※随筆・貞丈雑記(1784頃)八「切燈台、白木にて上はくも手にして」

とある。
 台に乗せた水桶に月が写っている。樽酒は原酒で、酒の弱い芭蕉さんは薄めるための水を用意したのだろう。

   正秀亭初會興行の時
 月しろや膝に手を置宵の宿    芭蕉

 この句は『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)に、元禄三年の八月中とある。
 「月しろ」は元禄五年冬の「月代を」の巻の発句、

 月代を急ぐやふなり村時雨    千川

の所で述べたが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「月代」の解説」に、

 「① 月。太陰。《季・秋》
  ※日葡辞書(1603‐04)「Tçuqixiroga(ツキシロガ) ミエタ〈訳〉すでに月がのぼった。または月の光が見えた」
  ※談義本・根無草(1763‐69)前「日は西山にかたむき、月代(ツキシロ)東にさし出て」
  ② 中古以来、男子が冠の下にあたる額ぎわの髪を半月形にそりあげたもの。さかやき。つきびたい。
  ※玉葉‐安元二年(1176)七月八日「自二件簾中一、時忠卿指二出首一其鬢不レ正、月代太見苦、面色殊損」
  ※撰集抄(1250頃)六「年かたぶきて、もとどりを切り、月しろみえわたり」
  ③ ⇒つきしろ(月白)」

 とある。②は「さかやき」のこと。③は「精選版 日本国語大辞典「月白・月代」の解説」に、

 「〘名〙 月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくること。《季・秋》
  ※大斎院御集(11C初)「いでぬまの月しろにみむあまつぼし 有明までの雲隠れする」
  ※俳諧・笈日記(1695)上「月しろや膝に手を置宵の宿〈芭蕉〉 萩しらけたるひじり行燈〈正秀〉」

とある。
 苗代(なわしろ)は苗床(なえどこ)と言い換えることができるように苗を育てる場所を表すし、糊代(のりしろ)は糊を付ける場所をいう。伸びしろは伸びる余地のことで、「しろ」という言葉自体が本体とは別に作られたスペースの意味があるのではないかと思う。
 そこから月代は月のこれから出る、月のために用意された場所のことで、それが空の白むことと合わさったのではないかと思う。
 月の出る方角の白むのを見ながら、皆さん膝に手を置いて待っています、という興行開始の情景を詠んだ発句だったのだろう。
 この発句に正秀は、

   月しろや膝に手を置宵の宿
 萩しらけたるひじり行燈   正秀

と返す。月に萩は付け合いで、そこに聖行燈で新味を出す。
 聖行燈はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「聖行灯」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひじりあんどん」とも。高野聖の笈(おい)に似ているところからとも、また、聖窓に掛けるところからともいう) 江戸時代、遊女屋の局見世(つぼねみせ)の格子、または風呂屋の軒にかけて、看板代わりにした行灯。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)七「非寺里行燈(ヒジリアントウ)のひかりを請て」

とある。

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