今日は台風の通過で朝から土砂降りの雨。散歩も今日は無し。
自民党の総裁選も宴たけなわだが、一人を除き基本的にマスコミに媚びる姿勢が目立つ。相変わらず選挙に大きな影響力があると信じているから、マスコミ受けすることを言えば次の衆議院選挙で勝てる、選挙に勝ちたい議員が自分を支持しているという腹なのだろう。
マスコミ受けする人間は同時にマスコミにめっぽう弱い。首相になってもマスコミからあれこれ追及されるとすぐ辞めてしまうものだ。今までそうして毎年のように首相が変わってきた。第二次安倍政権が唯一の例外だった。
あと、元禄六年夏の「風流の(誠)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
それでは「我や来ぬ」の巻の続き。
十三句目。
敵にほれて籠のかひま見
いはで思ふ陸の怒と聞えしは 嵐雪
「陸」は「ミチ」、「怒」は「イカル」とルビがある。
「いはで思ふ」は、
おもへどもいはでの山に年を経て
朽ちや果てなん谷の埋もれ木
藤原顕輔(千載和歌集)
だろうか。そうなると「陸(みち)」は陸奥(みちのく)に掛けて用いられ、恋に破れて陸奥に朽ち果てたと思っていたけど、実はその相手はかたき討ちの相手でもあったと、前句を敵を追う旅に転じたことになる。
十四句目。
いはで思ふ陸の怒と聞えしは
色このむ京に初萩の奏 其角
陸奥の旅に出たと思っていたが、京へ帰ってきていて初萩の歌を奏でていた。
「奏(そう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奏」の解説」に、
「そう【奏】
〘名〙
① 天皇に申し上げること。また、その公文書。太政官から申し上げて勅裁を仰ぐには、事の大小により、論奏式・奏事式・便奏式の三種があり、その書式は公式令に規定されていた。また、のちには個人から奉るものもあった。
※令義解(718)公式「奉レ勑依レ奏。若更有二勑語一須レ付者、各随レ状付云々」
※落窪(10C後)四「早うさるべき様にそうを奉らせよ」 〔蔡邕‐独断〕
② 音楽をかなでること。」
とある。
能因法師の『古今著聞集』の実は旅に出てなかったという噂での付けか。
十五句目。
色このむ京に初萩の奏
野分とふ朝な朝なの文くばり 嵐雪
京の王朝時代の色好みであろう。野分見舞いを口実に、片っ端から女に文を遣わす。
野分のしたりけるに、
いかがなどおとづれたりける人の、
その後また音もせざりければつかはしける
荒かりし風ののちより絶えするは
蜘蛛手にすがく絲にやあるらん
相模(古今集)
のように、その後音沙汰なかったりする。
十六句目。
野分とふ朝な朝なの文くばり
家々の月見あねに琴借ル 其角
朝に手紙が来て、夕べの月見に通って来るかと、あわてて琴を借りに行く。
十七句目。
家々の月見あねに琴借ル
ねたしとて花によせ来る小袖武者 嵐雪
花見の席で女の気を引きたいきらびやかな小袖を着た武士が、他の者に負けじと姉の琴を借りてくる。
十八句目。
ねたしとて花によせ来る小袖武者
美-山ン笑ひ茶簱の風流 其角
茶簱(ちゃき)は茶旗(ちゃばた)のことであろう。茶席の外に掲げる。
花の季節で「山笑う」と展開するが、恋の言葉が入らないので、強引に「美-山ン笑ひ」と美人の笑いに凝らしたか。
二表、十九句目。
美-山ン笑ひ茶簱の風流
鸚鵡能帰りをほむる辻霞 其角
鸚鵡というと謡曲『鸚鵡小町』か。百歳になる老いた小町を気遣った陽成院が
雲の上は在りし昔に変はらねど
見し玉簾の内やゆかしき
という歌を行家にもたせ、小町の所に使いに出すと、小町が、
雲の上は在りし昔に変はらねど
見し玉簾の内ぞゆかしき
と答える話で、最後に行家が帰って行く場面を「辻霞」が暗示させる。
二十句目。
鸚鵡能帰りをほむる辻霞
叶はぬ恋をいのる清水 嵐雪
この場合の「清水」は「きよみず」で清水寺のことであろう。叶わぬ恋が叶うように、清水寺で祈りを捧げる。
清水から帰ると鸚鵡が帰りを褒める。
二十一句目。
叶はぬ恋をいのる清水
山城の吉彌むすびに松もこそ 其角
「吉彌むすび」は「きちやむすび」でコトバンクの「世界大百科事典内の上村吉弥の言及」に、
「…しかし,寛永(1624‐44)ころから,遊女たちはすでに5寸ほどの広幅の帯を用いていたようである。寛永~延宝(1624‐81)のころから,この広幅の帯は一般にも流行し始め,とくに当時人気のあった歌舞伎役者の上村吉弥(1660‐80年ころ京で活躍した女形)が舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって,広幅,尺長(しやくなが)の帯が広く用いられるようになったといわれている。結び方も,この吉弥のそれをまねて,帯の両端に鉛の鎮(しず)を入れ,結びあまりがだらりと垂れるようにしたのを〈吉弥結び〉といい,非常な流行をみたと伝えられている。…」
とある。
清水寺で叶わぬ恋を祈る女は、当世京で流行していた広幅帯を吉弥結びにしていた。
松を「待つ」に掛けるのはお約束。
二十二句目。
山城の吉彌むすびに松もこそ
菱川やうの吾妻俤 嵐雪
菱川は菱川師宣で浮世絵の祖とも呼ばれている。江戸後期の一般的に言われる浮世絵はのような、一枚の独立した作品ではなく、草紙本などの挿絵画家で、やがて挿絵と本文とどっちがメインだかわからないくらい、絵の方が評価されていった。
木版だけでなく肉筆の風俗画も描いていて、「見返り美人図」はその代表作だ。
こうした菱川師宣の美人画を「吾妻俤」と言ったというが、世間で既にそう呼ばれていたなら、この句の手柄はあるまい。「菱川やうの吾妻俤」が嵐雪がそう呼んだところから広まったのなら、手柄と言えよう。
二十三句目。
菱川やうの吾妻俤
狂哥堂古き枕をおかれける 其角
狂歌堂はよくわからないが、『卜養狂歌集』の半井卜養か。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「半井卜養」の解説」に、
「没年:延宝6.12.26(1679.2.7)
生年:慶長12(1607)
江戸時代の狂歌作者,俳人。本姓は和気氏。医者の傍ら文事を好んだ。若くして俳諧,狂歌に遊び,京都で松永貞徳らと一座した。27歳のころには,すでに堺俳壇の第一人者であった。寛永13(1636)年前後より,しばしば江戸に住して,斎藤徳元,石田未得らと交わり,江戸俳壇の草分けとなり,貞門の五俳哲のひとりに称された。慶安1(1648)年に姫路城主松平忠次の家医となる。寛永17年仮名草子『和薬物語』を著す。承応2(1653)年将軍に見参を許され,鉄砲洲に居宅を賜った。このころより狂歌活動が盛んになり,朽木稙綱,酒井忠能ら諸大名と贈答を行った。その狂歌は『卜養狂歌集』にみられるように措辞,格調よりも即興性に妙がある。(園田豊)」
とある。まあ、其角の世代からすれば貞門的な古臭い狂歌だったのだろう。
せっかくの菱川師宣の挿絵も、本文が狂哥堂では、というところか。
二十四句目。
狂哥堂古き枕をおかれける
はだへは酒に凋む水仙 嵐雪
古い枕を置く老いた女の肌は、酒にやつれて、まるで凋んだ水仙のようだ。
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