2021年9月4日土曜日

 今日も雨で涼しい。
 パラリンピックももう残り少なくなってきた。午前中はボッチャを見てからブラインドサッカーの男子三位決定戦中国・モロッコ戦を見た。それが終わるとボッチャの団体 BC1/2(運動機能)三位決定戦が四エンドの途中だった。接戦だった。アンドレ・ラモスの足でボールをコントロールするのは何度見ても凄い。

 それではまた『笈日記』の方に戻ろう。

  「十六日の夜去来正秀が文をひら
   くに奈良の鹿殊の外に感じて
   その奥に人々の句あり。
 北嵯峨や町を打越す鹿の聲    丈草
 露草や朝日にひかる鹿の角    野明
 猿の後聞出しけりしかの聲    荒雀
 棹鹿の爪に紅さすもみぢかな   風国
 啼鹿を椎の木間に見付たり    去来
 南大門たてこまれてや鹿の聲   正秀
   冬の鹿
 鹿の影とがつて寒き月夜哉    洒堂
 きよつとして霰に立や鹿の角   支考
 川越て身ぶるひすごし雪の鹿   臥高」

 九月八日夜の、

 ひいと啼尻声かなし夜の鹿    翁
 鹿の音の糸引きはえて月夜哉   支考

の二句が京の去来と膳所の正秀に届いたのであろう。現存する元禄七年九月十日付去来宛書簡にこの句はなく、同日の江戸の杉風宛書簡には、

 菊の香や奈良には古き仏たち
 菊の香や奈良は幾世の男ぶり
 ひいと啼く尻声悲し夜の鹿

の三句がある。これとは別に正秀宛書簡があったのか。

 北嵯峨や町を打越す鹿の聲    丈草

 丈草は『芭蕉と近江の人びと』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によれば、

 「初め、深草に住み、後大津松本に移り、多くは義仲寺草庵(無名庵)に起居する。芭蕉の発病には、無名庵からいそぎ参じて看護に当る。三十三歳。」

とある。この時も無名庵にいたと思われる。「北嵯峨や」は桃花坊(京都長者町)去来亭や嵯峨の落柿舎に行った時の記憶によるものか。この二か所を行き来するときに北嵯峨を通る。
 京のはずれのこの辺りは、京に向けての商品作物を栽培する畑と小さな町が混在していたのだろう。鹿の声も町越しに聞こえてくる。「打越」は峠のことでもあるが、連歌や俳諧では前句を隔てたその前の句をいう。

 露草や朝日にひかる鹿の角    野明

 野明は嵯峨の住人で、露草はこの場合露の降りた草で、「朝日にひかる」としている。草の向こうに立派な角をした男鹿が見える。
 今日のツユクサの意味も含まれていたかもしれないが、ツユクサは青花や月草と呼ばれていた。元禄二年五月の尾花沢での「おきふしの」の巻五句目に、

   石ふみかへす飛こえの月
 露きよき青花摘の朝もよひ    芭蕉

の句がある。青花は染料に用いられ、青花摘みを職業とする人もいた。

 猿の後聞出しけりしかの聲    荒雀

 猿の群れが去ったあとに鹿の声が聞こえてくる。
 荒雀も嵯峨の人で浪化編『続有磯海』に、「サガ荒雀」とあり、

 竹の子の網はる枝やひな燕    荒雀

の句がある。野明や為有と同様、嵯峨の住民はこういう牧歌的な句が多い。もっとも「牧歌的」は近代の言い回しで、当時の言葉だと竹枝詞的と言った方が良いのか。

 棹鹿の爪に紅さすもみぢかな   風国

 風国は京の医者で、許六の『俳諧問答』には、

 「風国 発句、血脈の筋慥ニ見届がたし。雨中の花の泥を上たるがごとし。風雅ハ容易なるがよしとおもへるにや。かたのごとく麁抹也。
 然共俳諧巻にハ、花実共ニ有て、しかもとりはやしも見えたり。元来俳諧血脈に気がつきたり。発句なけれバ詮なし。たとへバ時代物の硯のふたのなきに、今様新町もののふたをとり合せたるがごとし。」

とある。
 棹鹿は小牡鹿(さおしか)で男鹿のこと。鹿は偶蹄目で蹄(ひづめ)が二つに割れている。その蹄が紅葉の落葉に埋もれるとさながら紅を差したみたいだ。爪紅は江戸時代にもあったが、ペディキュアがあったかどうかはわからない。
 こういうちょっと遊郭の艶やかの女性を連想させる辺り、嵯峨の牧歌的な句とは異なる。古典の小牡鹿の風流に爪紅の取り合わせも、許六からすると「時代物の硯のふたのなきに、今様新町もののふたをとり合せたるがごとし」なのか。

 啼鹿を椎の木間に見付たり    去来

 鹿と言うと紅葉なのだが、それを常緑の椎の木と取り合わせ、新味を狙う。

 樫の木の花にかまはぬ姿かな   芭蕉

の句を踏まえて、椎の木の紅葉にかまわぬ姿に我が道を行く鹿を描いたか。

 南大門たてこまれてや鹿の聲   正秀

 南大門はナムデモンではなく奈良東大寺の南大門。春日大社の鹿はこの辺りにも群がる。「たてこまれてや」に平家の南都焼討の連想を狙ったか。
 これに対し、大阪にいる洒堂、支考が「冬の鹿」という題で応じる。臥高は近江の人だが、臥高の句だけは去来・正秀からの手紙にあったものか。

 鹿の影とがつて寒き月夜哉    洒堂

 鹿は角が尖っているから、その影も尖っていて、あたかも枯枝の様で寒々しい月夜になる。

 きよつとして霰に立や鹿の角   支考

 「きよつと」は「ぎょっと」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ぎょっと」の解説」に、

 「〘副〙 いきなり、強く胸にこたえて、驚きおそれるさま、はっとして、心が動揺するさまを表わす語。ぎょと。きょっと。
  ※評判記・難波鉦(1680)一「その手はもはやふるいそや。ぎょっとするわいの」
  ※当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一二「よほど駭然(ギョッ)としたやうであったが」

とある。
 霰に打たれてはっとしたように、立派な角をした男鹿がたたずんでいる。イナズマに人が悟りを開くように、鹿も霰に悟ったのか。

 川越て身ぶるひすごし雪の鹿   臥高

 雪の降る日の凍り付くような川を鹿が渡り、いつもよりも激しく体の水を振い落す。

  「其柳亭
 秋もはやはらつく雨に月の形   翁
   此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなと
   いふ句なりけるにいかにおもはれけむ月の形にハ
   なしかえ申されし。廿一日二日の夜は雨もそぼ
   降りて静なれば、
 秋の夜を打崩したる咄かな」

 これは前に書いたのの繰り返しになる。
 元禄七年九月十九日、大阪の其柳(きりゅう)亭での八吟歌仙興行の発句で、事前に発句を用意するのではなく、その場の興で詠んだのであろう。

 昨日からちょつちょつと秋も時雨哉

の句は本当にそのまま詠んだという感じで、九月も中旬だからまだ暦の上で冬ではないが、昨日くらいからちょちょっと時雨がぱらついていたのだろう。
 ひょっとしたらこの句を詠んで、さあ始めようとしたところで、ちょうど月の光が射してきたのかもしれない。十九日だから月の出も遅い。
 せっかく月が出たのだから、この月を詠まない手はないとばかりの改作ではなかったかと思う。
 二十一日、二十二日の夜は雨が降っていた。「秋の夜を」の句は二十一日夜の車庸亭での半歌仙興行の発句で、秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶になる。

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