道祖神の祭りで、秦野には道祖神塔がたくさんあって、道祖神塔の所に正月飾りが積んであったりした。
竹竿の先に三色の団子を下げて火に炙って食べる。今年は見るだけだったが、来年はやってみよう。
それでは経哲草稿の続き。
この頃ちょっと風流から離れているけど、もう少ししたら戻ろうと思う。
「こうして資本家のあいだの競争が激しくなり、資本の集中度が高まり、大資本家が小資本家を滅ぼし、以前資本家だったものの一部が労働者の階級に転落する。ために労働の供給が高まり、またしても賃金が引き下げられるとともに、労働者は少数の大資本家にますます依存することになる。」
経哲草稿のマルクスは労働者がどこからきたのかという問題を完全に忘れているように思える。
資本家同士の競争に敗れた者が労働者に転落するにしても、それが労働市場に影響を与えるほどのものなのか。
労働者は農村から絶えず供給されていたはずだ。家督を継げない次男三男以下は、かつては日本なら乞食坊主、西洋ではよくわからないが、当然早かれ遅かれ野垂れ死ぬ運命だっただろう。
それが資本主義によって雇用が生まれ、かろうじて生きながらえる手段を持つに至った。その両面があったはずだ。
驚くべきなのは、その時点で既にブルジョワと同等の権利を要求していることではなかったか。
貧困は人口増加によって自然に生じている。有限な大地で全ての人は生きられないから、そこで命に序列を付けていた。
マルクス主義者が人口論を真っ向から否定するのは、それが最大の弱点だからに他ならない。
そして人口学の視点を欠いた革命理論は飢餓と粛清の大地に逆戻りさせた。
フランスの人権宣言は確かに理想だった。それは後に爆発的な経済成長と少子化で現実となったが、当時のそれは何をもたらしたかというと、ナポレオンの侵略戦争だった。
この当時ではフランス人権宣言は遥か未来の希望に過ぎなかったはずだ。何かマルクスの文章を読んでいると、それを文字通りのものと捉えて現実を全く度外視した、それこそ「空想的社会主義」ではなかったかと思う。
それは人の良心に訴えるには心地良いが、実行に移したらとんでもないことになるなる、そういう類のものだった。
マルクスが科学的社会主義を目指したことで、こうした当時のトンデモ本とは違うと言いたかったのだろう。ただ、それをやるにはまだ当時の科学は未熟で、結局は古典経済学とヘーゲル哲学を頼るしかなかった。それが経哲草稿だったのではなかったか。
その一つが、せっかく市場原理が需要と供給の関係で生じることを見出しておきながら、資本論を書くときには古典経済学の重力に沈んでいったのではなかったか。
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