贈与経済においては交換は全人格の取引であり、自分がその集団で生きるのと引き換えに、その集団にしたがうことだった。それは生存の取引と言って良い。
交換経済になっても基本的にその人の人生は生存の取引によって保障される。ただその集団が食料を生産する村落から交換によって生計を立てる集団に取って代わられるだけだ。
ただ、交換によって生計を立てる時、もはや職業集団には拘束されても村落には所属しなくて済む。このことによって村落に物やサービスを提供するにしても、その村落に骨をうずめ得る必要はなく、与えた物やサービスに対してのみ対価を得ることになる。ここに初めて交換価値が誕生することになる。
さて、この契約は労働時間と何らかの関係を持っているだろうか。何によってその価値は定められるのだろうか。
例えば他所の村の情報の価値は情報収集のための労働と何らかの関係があるだろうか。
呪術によって病気を治す際、その儀式の時間によって報酬が定められるのだろうか。
遠くから運んできた黒曜石の矢じりの価値はその製造と運搬の時間によって決まるのだろうか。
傭兵として戦争に参加した時、その戦闘時間で報酬を貰うのだろうか。
そうでないとすれば、何がその価格を決めているのだろうか。
ただ、報酬は売り手が生存できるよりも高いものではなくてはならない。少なくともそれを要求しなくては生きてゆくことができない。
かといって村落の方でも売りての生存を越えて余りあるようなものを支払う気もしないだろう。その意味では売り手の生活に必要な物資の価値と村落共同体の平均とが等しくなるかもしれない。
呪術師がたとえ一人の村人の命を救ったにしても、無限にその報酬を手にすることはあるまい。「命の恩人なんだぞ」と言ってみても、贈与の均衡によって成り立つ村落共同体はこうした恩着せがましい態度を死ぬほど嫌うものだ。
手にするのは、一人の人間の命を救ったんだから、今度は俺たちがあんたの命を救ってやる、ということで今を生きるのに必要最低限なものを差し出せば済むことであろう。
つまり生産物やサービスの価値は、村落共同体と同水準の生活物資の価値とほぼ等しいと見るなら、確かに村人一人の労働と呪術師の労働は等しいという労働価値説が成り立つかもしれない。
ならば、職人や商人の供給した道具類が、例えば高性能の弓矢によって仕留める獲物の数が増えたとすれば、多くの物を支払うだろうか。おそらくそうはならない。村の人たちが食ってゆくのにそんなにたくさんの獲物は要らないし、乱獲が獲物の減少を招くことも経験的に知っている。
つまり良い道具の供給は村人の労働時間を減らすだけで、多くの富をもたらすことはない。ただ、それによって今まで淘汰されるべき人達が飢餓から救われて、人口が増加した際には、生産性の低い部族は生産性の高い部族に制圧されることになる。
ただ、それでも最終的には全体の生産性がその道具に応じて上がるというだけで、全体の生活水準と職人や商人の生活水準の均衡が保たれる。
実際には生産性が高まっていても、交換される物の量は増えても、なぜか交換価値は同じように均衡を保っている。絶対的には豊かになっても、相対的には変わらない。ここに交換価値のトリックがある。
今日でも絶対的貧困と相対的貧困は区別されている。しばしば今の日本で問題になる貧困は、飢餓と隣り合わせの前近代の貧困とは根本的に異なる。それは今の豊かな社会に比べて取り残されている貧困であり、みんなが千円のランチを注文しているのに自分だけ食えないだとか、パソコンを習いたいのにキーボードが買えないといった貧困にすぎない。
近代社会では豊かになると必ず先に豊かになる人と取り残される人との貧富の差が生じる。この差は例えばマラソンのようなもので、距離が長くなればなるほどトップとビリの差は開いて行く。つまり社会が豊かになればなるほど貧富の差は大きくなり、相対的な貧困が生じる。
これは技術革新のスピードの速さに関係がある。つまり新技術がもたらす豊かさが最終的な均衡をもたらす前に、さらに新しい技術が生まれる。だから、社会主義者は技術の進歩を止めようとする。しかも彼らはせっかちで、均衡がもたらわれる前に革命によって極度の中央集権体制を作り上げて、強制的に富みの分配を行おうと企てた。これでは今ある技術すらも失われ、飢餓と粛清の嵐を生む。
土地あたりの生産性向上のもっとも画期的な事件は農耕と牧畜の誕生だった。
それまでの狩猟採集の生活は、基本的に野生動植物の数に依存するもので、野生動植物がと旧生態系に拘束されて一定以上増えない以上、土地あたりの生産量は限られていた。弓矢が進歩して狩りの効率が上がったとしても、楽に獲物が獲れるようになっただけで、養える人数は限定される。だからただいち早く新しい技術を取り入れた部族が、そうでない部族に取って代わるだけのことで、総人口を増やすことはできなかった。
農耕と牧畜は限られた土地で自然に存在する以上の収穫を上げる。これによって養える人口も飛躍的に増えることになる。この増加分でもって農具を作る専門の職人を養うことができる。
そして、それが灌漑農法になった時、さらに土地あたりの生産高は飛躍的に向上する。これによって感慨に必要な道具をや職人、専門家を養うことが可能になる。こうして村落共同体に属さない人たちの数が次第に膨れ上がってくると、最終的に彼らによって村落が占領され支配されるという状態が生じる。ここに小国家が誕生することになる。
ここで支配者階級と一般の村民との明確な不平等が生まれることになる。
何もなかった狩猟のフィールドに線を引いても私物化することはできなかったが、灌漑によって作られた人工的な農地なら私物化も可能だった。
灌漑は特殊な技術と知識が必要で、一般の農民がそれを持ってないなら、もはや彼らを追払うことはできない。追払えば元の焼畑の生産性に逆戻りして、今の膨れ上がった人口を養えなくなり、飢餓と粛清ということになる。近代社会でも革命を起こして技術者や専門家を追放すれば同じことになる。
さて、こういう状態になった時、交換価値は変化する。支配者階級は農民の生殺与奪権を握ることになる。つまり自分たちがいなければお前らは飢餓に陥ることになると脅すことができる。そこで支配者階級に必要な物資と一般人に必要な物質は一致する必要がなくなる。
ただ、支配者階級はごく少数であり、そのため支配者階級を例外とするなら、一人の生活に必要な物資の価値が商人の売る物資の価値と等しくなり、労働価値説が成立することになる。これはアダム・スミスの時代にも有効だった。
ただ、これは階級の存在及び地域格差などを度外視している。交換価値はその地域の生活水準によって変動するものであり、全世界に均質な交換価値が存在しているわけではない。
豊かな地域では豊かな生活をする労働者の消費する生活物資の価値が基準になり、貧しい地域では貧しい労働者の消費する生活物資の価値が基準になる。労働価値は絶対的な尺度ではなく、あくまで相対的な尺度にすぎない。だからこそ支配者階級の生活レベルを無視できる。
結局は生産性が上がっても労働価値は相対的なため、その豊かさを反映することができない。
労働価値は生産物の絶対的価値ではなく、あくまでもその社会の平均によって決まるため、いくら社会が豊かになっても労働価値が増えることはない。これが労働価値説の一番重大な罠(トリック)だ。
生産性の向上が自然発生的にあらゆるところに等しく起きるなら、最終的に全員が豊かでなおかつ平等な社会が実現できる、という幻想をもたらす。これが科学的社会主義のトリックではないかと思う。
だが実際は生産性を向上させる様々な発明は勝手に起こるものではないし、どこでも起こるものでもない。起きたとしても狩猟採集の時代の打製石器から磨製石器に移行したような、極めて緩慢なペースでしか起こらない。
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