今日も寒い日で、午後はみぞれ交じりの雨になった。
芭蕉の勝敗を見たので、次は素堂(信章)の勝敗を見てみようと思う。
十九番
左持 元日 望月 千春
蓬莱や山の栢あるけふのはる
右 試筆 山口 信章
鉾ありけり大日本の筆はじめ
左山のかひあるけふにや。はのいひそこなひさもこそけふの春さらさらといひのべて本歌の詞をかみくだく所もあらぬは何の味もなき栢よし野などには嵐山のかやもちとしふく候。さとちかくならではこれなき物にて候。右五もし手鉾たしと申事に候。筆鉾は常の事なれどもつき出し様に骨法有べきなり。日本は鉾のしたたりなれば少弁説もかなど覚へて僻耳には持と聞なし候。
「山のかひある」と判にあるのは、
わびしらにましらな鳴きそあしひきの
山のかひある今日にやはあらぬ
凡河内躬恒(古今集)
であろう。今日は御幸の目出度い日なのだから、そんなに悲しそうに猿よ鳴くなよという歌で、そのかひ(峡)を蓬莱飾りの柏に変えて今日の春と歳旦にしている。
確かにオリジナルの猿の声のかけらもなく、ただ言葉の続きだけを取った形になっている。
信章の句は文字通りの書初めではなさそうだ。「手鉾たし」はよくわからないが、何となくシモネタの匂いがする。まあ今の言葉でも「掻き初め」というのがあるが。
「日本は鉾のしたたりなれば」も伊弉諾伊弉冉の国「生み」の場面だから、鉾は男根の象徴ともいえる。ましてセキレイに腰の振り方を学んだなんて言う。「少弁説」は小便説か。
任口の判は饒舌で、喋る時もこんな調子なのかと思われるが、シモネタは気に入らなかったようだ。引き分け。
四十七番
左持 蔵開 廣野 元好
とく明る白壁うれし蔵ひらき
右 霞 山口 信章
見るやこころ三十三天八重霞
左うれしき所を覚へず。右三十三天喜見城の春霞あふげば頭の骨もいたきほどに候へ共五もじ猶あるべきかと覚へ候へば持とこそ申さめ。
蔵開きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蔵開」の解説」に、
「[1] 〘名〙 吉日を選んで、その年はじめて蔵を開くこと。また、その行事。近世大名が米倉を開く儀式をしたのにはじまる。宮中でも行なわれ、商家では多く一月一一日に行ない、鏡餠で雑煮を作って祝う。《季・新年》
※多聞院日記‐天正一四年(1586)正月五日「蔵開買初如レ例沙二汰之一」
※浮世草子・好色五人女(1686)五「吉日をあらため蔵ひらきせしに」
[2] 宇津保物語の巻名。琴の天才である仲忠が、三条京極の旧宅で、蔵を開いて真名で書いた祖父俊蔭の集と、仮名で書いた父式部大輔の集とを入手し、これを帝に講じて奇代の帯を賜わったことや東宮をめぐる女性達の動きを中心に描く。」
とある。目出度い行事で嬉しいのは分るが、俳諧である以上具体的に何かネタになる理由が欲しいという所か。
信章の三十三天喜見城はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「喜見城」の解説」に、
「[1] (Sudarśana の訳語) 仏語。帝釈天(たいしゃくてん)の居城。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽する。善見城。喜見。喜見宮。喜見城宮。
※三界義(11C初か)「更加二帝釈所住喜見城一成二三十三天一也」
[2] 〘名〙
① ((一)から転じて) この上もなく楽しい場所。花街をいう場合が多い。
※浮世草子・好色二代男(1684)一「目前の喜見城(キケンジャウ)とは、よし原嶋原新町」
※是は是は(1889)〈幸田露伴〉一「人間の極楽喜見城(キケンジャウ)かと思ふて居た鹿鳴館より」
② 蜃気楼(しんきろう)の異称。《季・春》」
とある。「見るやこころ」の上五にもう一工夫欲しいという所か。引き分け。
七十五番
左勝 上巳 小西 似春
くりの手や巴にめぐるすずり水
右 帰鴈 山口 信章
ちるを見ぬ鴈やかへつて花おもひ
左くりの手葉茂か張清が百貫は仕べく候。巴にめぐるは雖遺塵絶書巴字而思魏文而以翫風流の硯水が蓋志所之謹而献褒美。右鴈かへつて花おもひ散を見は鴈が涙も降春雨といふせくおもひ帰候歟。散る花を見届てこそ真に思ふと云物ならめ。散を見捨て帰は寿永の秋を見届ざる熊野が心中宗盛なんぼう無念たるべき歟。仍左勝たるべし。
判の「雖遺塵絶書巴字而思魏文而以翫風流」は『和漢朗詠集』の菅原道真「花時天似酔序」で、
春之暮月。月之三朝。天酔于花。桃李盛也。
我后一日之沢。万機之余。曲水雖遥。遺塵雖絶。
書巴字而知地勢。思魏文以翫風流。
蓋志之所之。謹上小序。
(春の暮月、月の三朝、天花に酔へるは、桃李盛りなればなり。
我が后一日の沢、万機の余、曲水遥かなりといへども、遺塵絶えたりといへども、
巴字を書きて地勢を知り、魏文を思ひて以つて風流を翫ぶ。
蓋し志の之(ゆ)く所、謹みで小序を上る。)
曲水の宴の序で、曲水の宴は上巳の日に行われる。「くりの手」は繰りの手で、すらすらと繰り出される書ということか。巴字はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「巴字」の解説」に、
「① (「巴」の字の篆書(てんしょ)体の形から) ともえの形。物がぐるぐる回るさまにいう語。
※和漢朗詠(1018頃)上「水は巴の字を成す初の三日(さんじつ) 源は周年より起って後幾ばくの霜ぞ〈藤原篤茂〉」
② (水が①の形にめぐり流れるところから) 曲水、また、曲水の宴をいう語。はのじの水。
※広本拾玉集(1346)四「思ひ出でてねをのみぞなく行く水にかきし巴の字の末もとほらで」
とある。
曲水の宴に筆を執って流れる水のように書き連ねるといったところだろうか。出典にもたれかかった句ではある。
これに対し信章の句は花が散るのが悲しくて見ずに帰って行く雁を「花おもひ」という。これが帰る鴈の本意本情に反するということだろう。
散る花は見届けるのが花思いであり、それを見ずに帰る鴈は残念。それが古歌の本意本情になる。
見れどあかぬ花のさかりに帰る雁
猶ふるさとのはるやこひしき
よみ人しらず(拾遺集)
のように、花よりも故郷を思う気持ちが強いからだ、とする。
寿永の秋は寿永二年七月の平家の都落ちのことで平宗盛に引き連れられて大宰府へ向かう。その前の春に宗盛は花見に遊女の熊野(ゆや)を呼ぶというのが謡曲『熊野』の物語で、熊野は母の危篤を聞いて帰郷したいのを堪えて清水の花見に同行するが、観音様が哀れに思って雨を降らせて帰郷を果たすという物語だ。
熊野サイドから言うと宗盛の横暴ということになるが、任口は宗盛サイドから、熊野の無風流を非難する調子になっている。
まあ、忠と孝どちらを優先させるべきかという古典的なテーマではあるが、日本では中国韓国では孝を優先させるのが普通だが、日本では忠を優先させる。親が死んでも仕事を続けるのを美徳とする日本に対して、韓国では何代も前の先祖の法要で会社を休む。
信章の「花おもひ」は人情ではあるが、任口には理解されなかったようだ。信章の負け。
百三番
左 桜草 鹽川 如白
花壇みよ春の中にはさくら草
右勝 上巳 山口 素堂
海苔若和布汐干のけふぞ草のはら
見分右勝たるべし。
随分と簡単な判だ。見分はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「検分・見分」の解説」に、
「① (━する) 立ち会って検査すること。状況を査察すること。みとどけること。取り調べること。
※三道(1423)「古名をば聞き及び、当代をば見分して」
※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)五「一家残らずめしよせられ御見分(ケンブン)あそばされしに」
② (見分) 見たところ。みかけ。みてくれ。外見。外観。外聞。
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)二「見分(ケンブン)よりない物は金銀なり」
③ (見分) 仏語。認識する主観の心。客観としての相分の対。法相宗では四分の一とする。
※法相二巻抄(1242か)上「見分と申候は、能く此相分を知る用也」
とある。②の意味で、一目瞭然というニュアンスか。
如白の句は、木には桜が咲いているが、花壇を見ればサクラソウが咲いている、というそれだけで、確かに何のひねりもない。
信章の句の上巳は大潮の日に近く、またこの日は禊を行うため、禊を兼て海に出る潮干狩りの日でもあった。桃青(芭蕉)の句にも、
竜宮もけふの鹽路や土用干し 桃青
の句がこのあと百十番に出てくる。
潮が引いた後の海苔や海藻が潮の引いた浜に残っていて草原みたいだ、という句は桃青の突飛な「竜宮の土用干し」より直接的で分かり易い。土用干しは夏のもので季節が合わないし。
桃青の句なら持だったかもしれないが、信章の句の海藻が潮干で草原になるという分かり易い面白さを取って、信章の勝ち。
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