2023年1月13日金曜日

 マルクスの『経済学・哲学草稿』(略して「経哲草稿」と呼ばれる)の「一、賃金」の冒頭はこのように始まる。テキストは光文社古典新訳文庫の電子版を使用。

 「賃金は、資本家と労働者の敵対する闘争によって決まってくる。」

 近代経済学なら「資本家の側の労働需要と労働力の供給の関係によって決まってくる」とするところだろう。
 微妙な違いだが、決定的に異なるのは、資本家と労働者との間の流動性がなく、完全に相容れることのない階級として認識されていることと、労働力の供給に人口学の視点を入れる余地がない所であろう。

 「資本家の勝利は動かない。資本家が労働者なしで生きのびられる期間は、労働者が資本家なしで生きのびられる期間より長いからだ。」

 これは初期資本主義の段階では資本家が原始的蓄積として一定の蓄えを持っていることが前提される。
 資本家が自己資本がなく完全に借金によって投資をしていて、なおかつ労働者の側に多少なりとも蓄えがある現代の労働者ならこの限りではない。
 また、資本主義の初期の段階で資本家の勝利は人口学的にも説明できる。つまり多産多死社会では常に労働力は供給過剰になるからだ。
 農村からは田畑を相続できない二男三男以下が皆労働力となって絶えず都市の工業地帯へ供給される。
 前近代社会ではこうした人たちは宗教によって救済された。とは言っても全員というわけにはいかない。宗教団体が寄付を集めてそれで行き場のない人たちの生活の面倒を見るにしても、自ずと限界がある。
 基本的には貴族や武家の子弟を優先させ、その下に無数の乞食坊主がいることになる。
 下層の宗教者は托鉢や角付け芸などで生計を立てたとしても、全員を救うだけの余裕はなく、多くは「野ざらし」になる。それが前近代社会だった。
 少しづつ商工業が発展して来れば、ある程度の人間がそこで雇用されるようになる。ただ、増え続ける人口に労働需要は追いつかないから、やはり多くは「野ざらし」ということになる。
 戦争というのもある程度は余剰人口の整理に役に立ったかもしれない。あるいは偶発的に流行する疫病も余剰人口を一気に消し去ったかもしれない。ただそれは一時的なものにすぎない。人口増加の圧力はこうした悲劇をも超えて人口を増やし続ける。
 基本的に下層階級の食いつめ者がどんなに悲惨な運命をたどろうが、下層階級の人口は増え続ける。だから人口が増えているからと言って差別や虐待が存在しなかったことの証拠にはならない。
 全体の経済が多少なりとも成長していれば、土地あたりの生存可能な人口、つまり定員が増えるため、人口は増加する。
 資本家が労働者なしに生きのびられる期間は原始的蓄積の多い少ないに依存する。
 これに対し労働者が資本家なしに生き延びられる期間は、どれだけ人脈を持っていて他人の世話になりながら生きられるかにかかっている。そのため労働者は常に恩義によって互いに縛り付け合い、互いに抑制し合ってぎりぎりの生活に縛り付けている。
 少しでも金が入ったら気前よく仲間に奢り、金がなくなったらその時の恩を返してもらおうとすることで、互いに最低限の生活を維持するとともに、そこから抜け出すことを許さない。
 そして飢える時はこうした相互依存の集団ごと飢えてゆくことになるが、大抵はその前に互いに気が立ってきて、喧嘩などで負けたら排除され、野垂れ死ぬ方が多いだろう。
 もちろん人口増加の圧力は資本家とて例外ではない。貧乏人の子沢山とは言うが、資本家だってそこそこ子沢山だった場合、必ず家督争いが生じる。あるいは日本ならお寺に、西洋なら修道院に放り込まれる。そこで居場所があればいいが、なければ労働者に転落する。こうして資本家の人口増加圧もまた労働者が引き受けることになる。

 「労働者にとっては、資本と土地所有と労働が切り離されていることが致命的なのだ。」

 土地所有に関しては、日本でも西洋でもかつては自由に売買できるものではなかった。
 土地は天下の物であり、その配分は王や領主の権限だった。日本の江戸時代でも庶民が売買できるのは間口などの借地権だった。
 王や領主の配分する所領としての土地所有と、町人の土地所有は同じものではなかった。
 資本家が元領主であれば、領内の土地を自由に使うことができただろう。これに対し町人から成りあがるには広い間口を確保する必要があった。間口の権利は商人同士で売買される。芭蕉の時代の江戸鍛治屋橋は、

 実や月間口千金の通り町  芭蕉

だった。
 日本の場合だが、最初は振り売りから初めて、若干大きな屋台を担ぎ(江戸時代の屋台は車輪がなくて担ぐものだった)、そこである程度の蓄積ができればいつかは小さな間口を買ってという道もあったかもしれない。
 ただ、蓄積というのが容易でないのは、結局下層階級は相互依存で失業に保険を掛けているため、なまじ稼ぐと、失業した仲間に配分しなくてはならない。そこを突き抜けるほど稼がないとチャンスはないと言って良いだろう。
 ヨーロッパの土地取引について詳しいことは分らないから、領主でないブルジョワがどのように土地を所有してたのかはその方面の専門家に任せることにする。

 「賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないこととに置かれる。通常の賃金は、アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜なみの生存に見合う最低線に抑えられている。」

 ここで労働価値説を思い出せばいい。労働価値説は労働者の平均的な生活がベースになり、様々な産業で労働者や商人が同じレベルの生活になるように相互抑制されることによって成立する。ただ、相互抑制は相対的に突出したものを「出る杭を打つ」ことによって維持されるもので、全体のレベルが向上することもあれば低下することもあるが、それにもかかわらず平均レベルがベースになる。
 今日のような豊かな社会の平均的労働者の生活は十九世紀の労働者の生活と雲泥の差があったとしても、労働価値説においては等価になる。
 多産多死の絶えず余剰人口が流入して慢性的に労働力の供給過剰に陥っている社会では、当然のことながら「家畜なみ」になる。そこが労働価値説のベースになる。

 「人間への需要が人間の生産をきびしく規制するのは、あらゆる商品の場合と変わらない。供給が需要を大きく上まわれば、労働者の一部は乞食や餓死へと追い込まれる。労働者が生存できるかどうかは、あらゆる商品が存在できるかどうかと同じ条件下にある。」

 ここでマルクスは労働相場も商品相場も需要と供給の関係で捉えていたことがわかる。

 「労働者は一個の商品となっているので、自分を売りつけることができれば運がいいといえる。そして、労働者の生活を左右する需要は、金持や資本家の気まぐれに左右される。」

 この「気まぐれ」はどうかと思う。実際は労働相場とそれによる生産物の商品相場とを秤にかけて、利益が出る範囲で投資するもので、「気まぐれ」でやっていたんでは資本家も破産すると思う。

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