2023年1月24日火曜日

 今日は寄ロウバイまつりを見に行った。二回目。
 電気代が大幅に値上げするみたいなので、屋根に太陽光パネルを付けられないかと思った。
 ただ、古い家だと屋根のスレートにアスベストが使われている可能性があるだとか、いろいろ難しいことがあるようだ。
 日本の家屋に太陽光パネルが普及しない原因の一つに、このアスベスト問題があるのではないか。
 いくら国や自治体が太陽光パネルを推奨しても、アスベストスレートの葺き替えを全面補助するなどの対策をしないと、いつまでたっても屋根上の太陽光パネル設置が進まず、無駄に山を崩してゆくことになる。
 アスベストスレート問題は古い空家がなかなか解体されない原因にもなっているのではないかと思う。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

二百五十番
   左持  土用干 広野 元好
 土用干小袖有間や蘭の花
   右   蚊帳  松尾 桃青
 近江蚊屋汗やさざ波夜の床
 左は芝蘭の室に入はかうばしき事をしる事家語に見ゆ小袖の掛香などの匂へるさまさもあるべし。
 右あふみ蚊屋といひて汗やさざなみといへる又めづらかに優美なり。よき持とぞ申べき。

 元好の「蘭の花」に、判者の季吟は『孔子家語』巻第四の「與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣」を引いている。芝蘭の部屋にしばらくいるとそれが当たり前になるように、善人と交わると当たり前のように善人になるという意味の言葉だ。環境の大切さということか。
 土用干の小袖が香を焚き込んでいい匂いがするというところに、その寓意が読み取れる。
 桃青の句は近江の蚊帳であれば汗臭さもさざ波のようだというもので、環境よりも一人一人の気の持ちようを重視する。
 近江八幡は蚊帳の産地で、貝原益軒の『東路記』に、

 「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。
 此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。」

とある。それに志賀の枕詞の「さざなみ」を掛けて、近江の蚊帳と思えば汗もさざ波、となる。
 環境が大事か心がけが大事か、どちらとも言えないということで、この勝負は引き分け。
 「よき持」は両方とも勝ちにしたいというくらいのニュアンスで、百十番や百六十六番のような、両方とも難ありの引き分けとは区別される。

二百七十八番
   左持  夕顔  小西 似春
 干瓢や夕顔つつむ上むしろ
   右   蝉   松尾 桃青
 梢よりあだに落けり蝉のから

 左かんへう売ものの莚に包みしたためしをかの夕がほの巻のことにすぐれたる哀におもひよそへしはさる事ながら聊傍題に似たり。
 右の句も蝉の題にからをいはん事同傍題にや。可為持。

 傍題は今ではサブタイトルの意味で用いられるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「傍題」の解説」には、

 「① 和歌・連歌・俳句で、病(やまい)として嫌う一種の体。ある題で主として詠むべき事物をさしおいて、題に添えた事物を中心として詠むこと。また、両者を同一の位置において詠むもの。
  ※仁安二年八月太皇太后宮亮経盛歌合(1167)「そもそも傍題はよまぬことなりとや申す人もあれど」
  ② 歌などで、数多く詠む中に同じ事のあること。
  ※近来風体(1387)「歌の傍題と申す事は、〈略〉又歌かずをよむに同事のあるをも傍題と申すなり」
  ③ (①から転じて) 本題をはずれること。目的がずれること。
  ※滑稽本・八笑人(1820‐49)四「すこし傍題(ハウダイ)にはなるが」
  ④ 書物・論文などの副表題。副題。サブタイトル。
  ※敗北の文学(1929)〈宮本顕治〉三「この作品には、『ある精神的風景画』と云ふ傍題がそへられてある」

とあり、ここでは①の意味になる。
 似春の句は「干瓢の夕顔つつむ上むしろや」で、干瓢にする夕顔の実を上莚で包んでゆくという干瓢売の様子に、『源氏物語』の亡くなった夕顔のむくろの哀れを込めたものであろう。
 ただ、夕顔の実の句であって、「夕顔」というタイトルから連想させる夕顔の花の句ではない。
 桃青の句は梢から無駄に落ちて行く蝉の儚い命と思いきや、蝉の殻で落ちにしている。これも蝉の句ではなく蝉の抜け殻の句だ。
ということで両方とも傍題ということで引き分けになる。

三百六番
   左   施餓鬼 鹽川 如白
 後世事や人間第一の水せがき
   右勝  立秋  松尾 桃青
 秋来にけり耳をたづねて枕の風
 後世の事人間第一勿論興少し。
 秋風枕をおどろかす体耳を尋る詞つかひおかし。右勝。

 如白の句の水施餓鬼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水施餓鬼」の解説」に、

 「〘名〙 水辺で行なう仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに竹や板塔婆を立て、それに布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)。
  ※俳諧・山の井(1648)秋「されば水せがきして、火の車のたけきもうちけす心ばへ」

とある。
 それにこの場合の「人間第一」だが、今日の意味ではないだろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「人間」の解説」に、

 「[1] 〘名〙
  ① 仏語。六道の一つ。人の住む界域。人間界。人界。人間道。→じんかん。
  ※観智院本三宝絵(984)下「人間はくさくけがらはし。まさによき香をたくべし」 〔法華経‐法師品〕
  ② 人界に住むもの。ひと。人類。
  ※今昔(1120頃か)五「天人は目不瞬かず、人間は目瞬く」
  ③ 人倫の道を堅持する生真面目な人。堅物。
  ※雑俳・続折句袋(1780)「人間で一生仕廻ふ不器量さ」
  ④ 見どころのある人。人物。人柄。」

 生まれ変わっても六道の内の人間道に生れるのが一番という意味で、餓鬼道や地獄道に落ちたくはない、という意味であろう。
 まあ、誰しもそう思うことだから「勿論」だけど、それ以上の余情はない。
 桃青の句は、

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞ驚かれぬる
            藤原敏行(古今集)

の歌によるものだが、風の音に秋が来たのを感じるという所に、秋風が耳を訪ねてくる来ると表現する所の面白さがある。
 枕もとでささやかれて起こされる様からの連想か。桃青の勝ち。

三百三十四番
   左   踊   柏木萬年子
 宇治の里にかかりけるかな伊勢踊
   右勝  荻   松尾 桃青
 唐きびや軒端の荻のとりちがへ
 山田より内宮へかけをどりにやさのみ興なし。
 唐きび軒端の荻其陰高き事をよせ合られたり。物語の詞実おかし。右勝。

 萬年子の句の伊勢踊りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伊勢踊」の解説」に、

 「〘名〙 近世初頭に、御託宣によるとして伊勢神宮の神霊を諸国に送る神送りの踊り。慶長一九年(一六一四)から翌元和元年にかけて大流行した。近世中期、伊勢音頭が流行してからは、それに合わせて踊る踊りを称するようになった。
  ※会津塔寺八幡宮長帳‐元和七年(1621)「村々郷々にて御宮作立、其上たんす、もち、御酒、お作上よりのおしゑ之歌うたい申、御伊勢おとり有り」

とある。伊勢踊りを踊りながら伊勢まで来て、ついに伊勢の宇治橋を渡り内宮に入る。それだけ?と言われればそれまでの句だ。
 桃青の句は『源氏物語』で空蝉の寝室に忍び込んで間違えて軒端の荻と交わったことを思い起こさせながらも、内容的にはただ荻を吹く悲しげな音がすると思ったら荻ではなく唐きびだった、というもの。
 唐きびはこの時代はコウリャンのことだった。トウモロコシのことになるのはもう少し後の時代になる。そのため判にも「其陰高き事」となる。コウリャンは三メートルに達するが、荻も二メートルを越える。ともに背が高い。
 草の間違えを源氏物語になぞらえる所に面白さがあるということで桃青の勝ち。

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