2023年1月26日木曜日

  今日も良く晴れて寒かった。

 それでは『六百番俳諧発句合』の続き。

五百二番
   左  十夜法事 武野 保俊
 両の手をあはせて十夜の念仏哉
   右勝  霜   松尾 桃青
 霜を着て風を敷寝の捨子哉
 左両の手をあはせて十夜とはゆびの数などよりおもひよれるにや。聊いひたらぬところあるに似たり。
 右のすて子あはれにかなし。かちとすべし。

 念仏を唱える時には合掌するから両の手を合わせるもので、その指の数が十本だから十夜念仏というのは、余計なことだしそんなに面白い洒落でもない。過ぎたるは及ばざるがごとしという所か。
 桃青の句の捨子は文句なしに悲しい。「霜を着て風を敷寝」は比喩ではあり、実際の捨子は何かしら布にくるんで飯詰に入れられているものだが、この比喩が効果的に哀れを催すので桃青の勝ち。

五百三十番
   左   鱈   浅香 研思
 鹽物やいづれのとしの雪のうを
   右勝  雪   松尾 桃青
 富士の雪廬生が夢をつかせたり
 左いづれの年の雪の魚といへる後天山不弁と作れる朗詠の詞ながらしをくちにけんたらの魚賞翫うすくや侍らん
 右かんたんに銀の山をつかせたる事ある心にや心たくみに風情面白し勝とすべし。

 「いづれのとしの雪」の出典を、『和漢朗詠集』三統理平の、

 天山不弁何年雪 合浦応迷旧日珠
 (天山に弁(わきま)へず何(いづ)れの年の雪ぞ
 合浦にはまさに迷ひぬべし旧日の珠に)

だとしている。

 月見れば思ひぞあへぬ山たかみ
     いづれの年の雪にかあるらむ
            藤原重家(新古今集)

の和歌にも取り入れられている。万年雪を指す。
 塩漬けの鱈を見て、いずれの年の雪の魚、と鱈という漢字を分解して、保存の利く塩鱈を万年雪に喩えている。
 鱈の保存食は棒鱈と干鱈があり、棒鱈は蝦夷や出羽などの極寒の中でかちんかちんになるまで干すもので、干鱈は普通の干物をいう。
 干鱈は延宝の頃の、「あら何共なや」の巻十四句目の

   物際よことはりしらぬ我涙
 干鱈四五枚是式恋を       信章

 また貞享二年の発句、

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

があり、普通に裂いて食べることができるが、棒鱈は元禄五年冬の「けふばかり」の巻二十一句目に、

   當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

の句があるが、時間をかけて戻して食う。
 ただ、干鱈を賞翫するのに万年雪を持ち出すのはやや大袈裟か。
 桃青の句の「廬生が夢をつかせたり」は邯鄲夢の故事による。「つかせたり」は「築(つ)かせたり」で謡曲『邯鄲』に、

 シテ「東に三十余丈に、
 地  銀の山を築かせては、黄金の日輪を出だされたり。 
 シテ「西に三十余丈に、
 地  黄金の山を築かせては、銀の月光を出だされたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.2416). Yamatouta e books. Kindle 版.)

から来ている。
 雪の真っ白な富士山を見ていると、邯鄲の夢に築かせた銀の山、黄金の山のようだ、と富士の雪を賞翫している。こちらの喩えの方が当を得ている。桃青の勝ち。

五百五十八番
   左勝  寒垢離 黒川 行休
 寒垢離のあひぬる水や鼻の瀧
   右   炭   松尾 桃青
 白炭や彼うら島が老のはこ
 左かんこりの水ひたひにみなぎりおつるを鼻の瀧といへる見るやうにおかし。
 右うらしまの子が箱をあけて一時に白頭と成し事を白炭になぞらへしにや。聊いひかなへぬに似たる所あれば左為勝。

 寒垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寒垢離」の解説」に、

 「① 寒中に冷水を浴び心身を清めて、神仏に祈願すること。また、山法師、修験者(しゅげんじゃ)などが寒中に白装束で町を歩き、六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えながら、家々の戸口に用意した水桶の水を浴びて回る修行。寒行。《季・冬》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕
  ※談義本・銭湯新話(1754)一「寒垢離(カンゴリ)の願人が水浴るやうに」

とある。荒行で本来は厳粛なものだが、水を被ると鼻水がそれに混ざって、鼻の下に滝ができる。
 桃青の句の白炭は黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもの。日焼けした漁師の浦島太郎に白髭が生えた姿がそれに似ているというものだ。
 桃青の「犬の欠尿」同様、「鼻の瀧」のようなネタはこの時代には受けが良かったようだ。古俳諧はシモネタが多かったが、古俳諧で育った判者の世代には受けが良かったのだろう。いずれも判者は季吟。
 品の良い桃青のギャグは次世代のもので、旧世代の感覚では桃青の負け。

五百八十六番
   左   厄払  松村 吟松
 厄としや借銭そへてにしのうみ
   右勝  歳暮
 成にけり成に気りまでとしのくれ
 左は厄難もおひ物もさらりとはらへる心をふくめ右はとしの終になるこころを成にけりなりにけりまでといひなせるともに感情の所ながら句は詞つかひ一入なるべき物なるに右の重詞新しく珍重に候なり。可為勝。

 厄年も借金も歳が変われば流れて、西方浄土へ成仏する。多分これはさすがに言い古された題材だったのだろう。
 桃青の句は、正月になれば春になりにけり、今年でうん歳になりにけり、その時までは年の暮、という意味だろう。
 二つ重ねることで、色々なことがという意味になって、これに限らず、厄年も無事終わりになりにけり、借金も何とかなりにけり、という意味を加えることもできる。この万能さが季吟にとっては新しいと感じられたのだろう。桃青の勝ち。

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