それでは『六百番俳諧発句合』の続き。
百三十一番
左 茶摘 柏木萬年子
侘人のたのしみをつつむ茶園哉
右勝 花 山口 信章
夕かな月を咲分はなのくも
左理はありとも其理卑し。月を咲分る花の雲新らし。右勝たり。
侘茶は千宗旦によって徹底したものになった。ウィキペディアには、
「1600年(慶長5年)頃、少庵が隠居したのに伴い、家督を継いだ。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから政治との関わりを避け、生涯仕官しなかった。茶風は祖父利休のわび茶をさらに徹底させ、ために乞食修行を行っているように清貧であるという意味から、「乞食宗旦」と呼ばれたという。」
とある。
実際に侘茶といっても本当に乞食がお茶を嗜むわけではないが、乞食宗旦からの発想で乞食の楽しみを包む茶園とする。
ここでいう侘人が今でいう理想化された侘人ではなく、文字通り乞食という意味で解されてたという所がこの時代の感覚だった。
芭蕉の句でも何でもかんでも侘人、乞食の美学として受け取ろうとする人が結構いるが、江戸時代の人はもっと現実的だった。
まあ、路通や惟然が本当に乞食みたいだからと嫌ってた許六は行き過ぎだとしても。
信章の咲分はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「咲分」の解説」に、
「〘名〙 一株の中にさまざまな色の花が咲くこと。同一の株の草木に異なった色の花が咲くこと。また、その草や木。
※御湯殿上日記‐天正八年(1580)九月二九日「ゑちせんこかめ千世つくりたるとて、うすむらさきときとのさきわけのきくの枝まいる」
とあるが、この場合は雲が左右に分かれて月が見えるのを、夕べには花の雲から月が昇るから、花の雲が左右に分れたという意味で用いられている。
発想が面白く信章の勝ち。
百五十九番
左持 扇給 濱田 春良
儀式もや給ふ扇のをりめ高
右 時鳥 山口 信章
返せもどせ見残す夢を郭公
左孟夏旬の儀式のをりめ高なるさまおもひやられてさもあるべし。
右見のこす夢ををしむによせてかへせもどせといへる郭公の句いひしりてをもしろしよき持とぞ定め侍らん。
春義の句の
折目高はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「折目高」の解説」に、
「① 衣服などの折りたたんださかいめの線がはっきりと高く現われているさま。
※史記抄(1477)一四「衣のたわうてをりめたかにもなう、しないやうたなりぞ」
② 態度や服装などが礼儀正しくきちんとしているさま。折目正しいさま。きちんとしていて堅苦しいさま。
※俳諧・口真似草(1656)「折め高にしみゆる人かも あたらしき装束やけふ北まつり〈以専〉」
判詞の孟夏旬はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「孟夏の旬」の解説」に、
「平安時代、陰暦四月一日に行なわれた旬政。天皇が紫宸殿に臨んで政務を行ない、群臣とともに酒宴を開いた。孟夏の宴。《季・夏》 〔公事根源(1422頃)四月〕」
とある。これは喩えで孟夏旬のような夏の儀式で、暑い中でも折り目正しくということで、賜った扇子が折目がきちんとついている(当たり前)というネタと思われる。
信章の句はホトトギスの声に夢から覚まされて、夢を返せ戻せという句。
ほととぎす夢かうつつかあさつゆの
おきて別れし暁のこゑ
よみ人しらず(古今集)
のような後朝の時鳥の連想であろう。
どちらも捨てがたいということで良持とする。
百八十七番
左持 郭公 神野 忠知
ねをせぬや唐へ投金郭公
右 初鰹 山口 信章
初鰹またじとおもへば蓼の露
左唐へなげかねめづらかなるにや。
右またじとおもへばむらさめのそらとよめる心をうつして又めづらしよき持なるべし。
投金はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「投金・抛銀」の解説」に、
「① 近世初期の朱印船貿易で、博多・長崎・堺などの豪商が、船舶および積荷を担保として、ポルトガル人・中国人・日本人の貿易業者に貿易資金を貸付投資したこと。
※浮世草子・本朝二十不孝(1686)三「昔唐へ抛金(ナゲガネ)して、仕合次第分限となって」
② 遊蕩(ゆうとう)に使う前渡金。前金。手付金。
※浮世草子・好色盛衰記(1688)二「裸金にて弐千両。これは何になる小判と申。揚屋へなけがねと仰せられしに」
とある。唐へということだと①の意味で、今の言葉だと投資ということか。
投資して大金になって帰ってくるのを今か今か待つ気分とホトトギスの声を待つ気分とをダブらせている。
判詞の引用は、
いかにせむこぬ夜あまたの時鳥
またしと思へばむらさめのそら
藤原家隆(新古今集)
の歌で、ホトトギスなんてもう待つまいと思ったらホトトギスにを聞くのにおあつらえの村雨が降るというもので、それを初鰹なんて食うもんかと思ってたら、蓼味噌が手に入ったとする。
この時代の初鰹は生姜醤油ではなく蓼味噌で食べるものだったのだろう。醤油は中京圏には溜まり醤油があり、関西では薄口醤油が作られ始めたが、江戸ではまだあまり普及してなかった。
刺身は酢で鱠にし、蕎麦は垂れ味噌で食べる時代だった。
どちらも面白いということで、良持。
二百十五番
左勝 瓜 池田 宗旦
錫乃鉢や光とともに白齒桑
右 蛍 山口 信章
戦けりほたる瀬田より参合
左右皆さるかふをいへる中に兼平は修羅江口はかつら句体も其ほどにしたがふにや。左は心とどむべく、右は見所なき心ちし侍り。
「さるかふ」は猿楽のことか。今でいう能だが、能という言葉は本来もっと広い意味で歌舞全般を指していた。今でいう能楽に相当する言葉は猿楽だが、「さるかふ」はそのウ音便化したものか。
謡曲『兼平』は修羅物で木曽義仲の粟津での最後を瀬田の矢橋の渡し守が語る物語。
地 「弓馬の家にすむ月の、わづかに残る兵の、七騎となりて木曾殿は、この近江路に下り給ふ。
シテ「兼平瀬田より参りあひて、地また三百余騎になりぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.923). Yamatouta e books. Kindle 版. )
と七騎となった木曽義仲に兼平の瀬田の軍勢三百騎がわらわらと現れる場面を、瀬田川の名物の蛍がわらわら現れる、とする。
これに対し、謡曲『江口』は鬘物で西行法師と遊女江口の歌のやり取りを題材としている。
地 「思へば仮の宿に、心とむなと人をだに諌めしわれなり。これまでなりや帰るとて、即ち普賢菩薩と現はれ舟は白象となりつつ、光とともに白妙の白雲にうち乗りて、西の空に 行き給ふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (pp.1098-1099).Yamatouta e books. Kindle 版. )
の江口の霊の消えて行く場面の「光とともに白妙の白雲に」から、錫の鉢に盛られて白真桑(銀真桑ともいう)が運ばれてゆく様子とする。
「左は心とどむべく、右は見所なき心ちし侍り。」は好みの問題という気もするが、ここは信章の負け。
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