不平等に対して人間は羨望と嫉妬という相矛盾する感情を抱く。
冷たい社会は嫉妬が勝利することで羨望のない社会を作り上げるが、熱い社会は羨望を解放して嫉妬の抑制を要求する。
労働価値説は万人が等しく同じ生活レベルになるように調整されるという前提の理論だが、資本益はここから抜け出し突出することによって得られる。果たしてそれは搾取だったのだろうか。
灌漑農業はそれを主導し管理する新たな階級を生み出し、王侯貴族を誕生させる。
だがそれによって一般人は貧しくなったのだろうか。
灌漑農業は王侯貴族を裕福にしただけで今までなかった貧困を生み出したのだろうか。
ここで思い出さなくてはならない。労働価値説は労働者の平均的な生活水準を基本とした相対的な指標だったことを。
灌漑農業が生み出したのは相対的貧困であって、絶対的な貧困ではなかった。
そして近代資本主義もまた同様であると。
労働価値説は労働者の生活を均等化に向かわせる嫉妬の原理であり、互いに羨望の湧かないれことを基礎として「等価」と見做しているにすぎない。
これに対して資本益は絶対的な豊かさを基礎とする。
近代全体を通じて労働による利益を資本益が上回るとしたら、それはいかに相対的に労働者が貧しくなっているように見えても、社会全体が豊かになっていることの証明ではないのか。ピケティの「利益率(r)> 成長率(g)」はそう読み取れるのではないのか。
資本の価値は労働時間にも労働者一人当たり必要な生活物資にも拘束されない。資本の価値は生産性をどれほど高めるかによって決定される。
生産性を高めれば生活に必要な物資が増える(つまりより贅沢な社会になる)か労働時間を減らすかになる。
だが、労働価値説に基づく限り、前者はいかに物が増えてもその価値は一定であるため、物資の価値が相対的に下落することになる。後者だと減少した労働時間とともにやはり生産物の価値は下落することになる。
現実の価値は労働時間によって決定されてはいない。労働価値説は生活水準を相互に抑制して平等に保とうとする中にしか存在できない。
嫉妬による相互抑制から羨望を解放した社会では、結局のところ羨望が新たな価値になる。そこに古典経済学から便宜的に退けられていた希少価値や精神的価値が経済の重要な要素になって行く。
これは歴史的には新しいかもしれない。大衆の生活がエレクトリゼーションとモータリゼーションによって大きく変わり始めたのは、アメリカでも1920年代、日本では戦後のことだった。
ただ、その萌芽は産業革命の頃には既に始まっていた。いわゆるブルジョワの間でそれは既に始まり、労働者は羨望と嫉妬のはざまに立たされ、結局西ヨーロッパとアメリカでは革命は起こらなかった。それは羨望が嫉妬に打ち勝ったと言って良い。革命は羨望の対象が手の届くところになかった社会で起きた。
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