それでは『六百番俳諧発句合』の続き。今日は秦野市俳句協会の句会の日だったのでちょっと少なめに。
八十二番
左 猫妻恋 長坂 守常
妻恋やねしみをあけて猫の皮
右勝 同 松尾 桃青
猫のつまへつゐの崩れよりかよひけり
左猫は傾城の後身と申はふ違所なし。三線の皮と成てむかしは三筋町今は三やの夕人待ねしみ撥にてもまねくは知音と云物やらん。右のへついの崩れより通らば在原ののらにや。よひよひことにうちもねうねうとこそ啼らめ。いづれもおとらぬ唐猫なれども妻恋の物語につきて右をかちとす。
守常の句の「ねしみ」は享保の頃の『今様職人尽百人一首』の琴三味線師の歌に、
かざりよく渡せる弦のおく琴は
したてて見ればよきねじみなり
の用例がある。
「ねじみ」は今のところ謎だが、津軽三味線では「音締め」と「音澄み」があって、音締めはギターでいうハーモニクス、音澄みはカッティングのことらしい。「あけて」が「上げて」なら単に音色のことなのかもしれない。
守常の句は、妻恋に鳴いてた猫が今は吉原の三味線になって客を招いている、という意味であろう。任口の評は音色に掛けて「知音(友)」を招くと洒落ている。
桃青の句は『伊勢物語』第五段の、
「むかし男ありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、わらはべの踏みあけたる築地ついひぢのくづれより通ひけり。」
という築地の崩れた所から男が通ってきて、結局バレちゃう話を踏まえている。
猫も恋の季節になるとどこからともなく通ってくるが、猫はよく竃で暖を取ったりするから、灰だらけになっていて、さては竃の崩れていて入れる隙間から入って来たに違いない、とする。
それを任口は「在原の野良にや」として、「妻恋の物語につきて右をかちとす」と出典となる物語が良く生かされているとして、桃青の勝ちとする。
百十番
左持 出替 前川 由平
出がはりの水しは井筒の女かな
右 上巳 松尾 桃青
竜宮もけふの鹽路や土用干し
左右同じほどか勝負までもなし
「水し」は「水仕(みづし)」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水仕」の解説」に、
「〘名〙 (「御厨子」を「水仕」と解したところから) 台所で、煮炊き、水汲み、食器洗いなどをすること。水仕事をすること。また、それをする下女。水仕女。
※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一〇「さて百人のながれのひめがありけるが、そのしものみづしはの、十六人してつかまつる」
※人情本・花筐(1841)五「先非を悔ひ歎き、たとへ炊業(ミヅシ)の業をしても」」
とある。雇われて炊事している女は、確かに井戸の側にいつもいそうだ。
桃青の句も「上巳」という題だが、唐突に竜宮の塩路が出てくるかよくわからないし、土用干しは夏で季節が違う。
多分上巳に供える海産物が竜宮の塩路みたいで、その頃が新月に近い大潮だから、水も引いて竜宮が土用干しされているみたいだ、ということなのだろう。
どちらとも意味が取りにくい句で、それで引き分けになった感じもする。判定がどこか投げやりだ。
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