2023年1月4日水曜日

 さあ、年も改まったということで、ことしは去年の続きからまず始めてみよう。
 去年は交換価値というのが、十八世紀、十九世紀の時点での資料の豊富さと人口の大半が食うだけでやっとの生活をしていることから、かなり便宜的に用いられた仮説だというのがわかった。
 いわゆるマルクス主義はその労働価値説を仮説としてではなく形而上学的な命題として原理主義化してしまったため、結局すべての人民を食うだけのやっとの生活に縛り付け、言い方を変えれば飢餓と隣り合わせの社会を理想の社会としてしまった。そこまでは見て来た。
 ただ、近代経済学はこうした労働価値説に代案を出すことはなかった。そこで価値の起源は人間の最低限の労働によって得られる飢餓と隣り合わせの状態によって決定され、それ以上を求めることが搾取だという主張を解体するまでの力はなかった。
 結果、今日でもなお資本主義経済の豊かさを否定する独裁国家が、明らかに経済的メリットのない侵略戦争を起こしているし、また起こそうとしている。二十世紀の多くの社会主義国家が陥った飢餓と粛清の地獄を反省することなしに、同じことを繰り返そうとしている。
 本当の経済的価値とは何なのか、単なる労働時間によってけって着されるものでもなく、一人の労働者のぎりぎりの生活を保障するだけの経済的価値を基準として、それ以上を求めることを断罪するような思想を葬り去らねばならない。
 地味な仕事ではあるが、改めて「価値とは何か」を考えてみようと思う。

 さて、完全平等社会、いわゆる「冷たい社会」がいかにして崩壊していったかと考えた時、18世紀の人の発想は近代社会を基準にして、単純に財産のあるなしが不平等を作ったと考えた。
 ルソーの『不平等起源論』はその典型で、マルクス主義もまた私有財産が不平等を生み出したと考えた。
 しかし、冷たい社会の中で誰かがいきなりフィールドにロープを張って、ここは俺の土地だと宣言したらどういうことになるか。想像すればわかることだが、当然袋叩きにあうだろう。そうやって不平等の芽を摘み続けることで、こうした社会は維持されてきたのである。
 不平等の起源はもっと単純なところにあった。それは筆者が繰り返し述べてきたことで、有限な大地の無限の生命は生存できない。土地にはその生産力に応じた定員がある。そして、その定員を超えて人口が増え続ければ、命を選別しなければならなくなる。不平等はここから生まれる。
 元々完全平等社会と言っても、そこに暮らす人間は量産型のロボットではない。一人一人顔形が違い、持って生まれた能力や経験によって培われた能力は一人一人皆違う。性癖もまた偶発的に形成された脳回路によって一人ひとり違うし、それらを全てひっくりめて、一人一人それぞれの個性(キャラ)を持っている。
 われわれはそれぞれ想像と推測で相手を理解し、値踏みをする。時に結婚相手を選ぶ時は、この値踏みが露骨に表に現れることになる。
 比喩でいうなら、われわれは皆隠し持ったパラメータを持っていて、それぞれのユニークスキルを持っている。
 こうしたものはゲームの世界ではお馴染みだし、ゲーム世界を模した「異世界」の小説でもお馴染みのものだ。なろう系のラノベでお馴染みのこうした世界に、それほど違和感なく読者が没頭できるのは、これが現実世界のかなり単純化された一つのモデルだからだ。
 ゲームは実際には複雑で不確定な要因の多い現実のバトルを思い切って単純化して描いている。ただ、それがあまりに現実とかけ離れていれば、プレイしていても感情移入できずにすぐに飽きてしまう。その意味では成功したゲームの設定は、現実の単純化されたモデルとみなすことができる。
 もちろん現実にはパラメータの数字を覗くことはできない。ただ相手がどういう人間か見極めようとした時には、幾つかの異なる能力の度合いを総合的に評価するのは普通のことだ。顔はまあまあで、背は低く小太りで、性格は概ねよく陽キャで面倒見が良いが、ちょっと嫉妬深いところがあり、怒らせれば怖い、みたいなことを考えながら合格点を判断するものだ。
 完全平等社会でも、こうした暗黙のパラメータは意識されているし、狩りの名手は誰で弓矢作りの名手は誰で、揉め事が起きた時にうまく収めてくれるのは誰かということは常に意識している。だからこうした役割をシャッフルして、誰かが際立つのを防いでいる。
 ならこの平等はどうすれば崩れるかというと、簡単に言えば、人口が増えすぎて定員オーバーになって、誰かを間引かなくてはならなく待った時だ。そこでなんらかの暗黙の優先順位がつけられていたことが露呈することになる。
 人口調節の仕方は幾つもある。
 一つは生贄を捧げるやり方で、生贄の選び方にもいろいろ考えられる。何らかの法則で決める場合もあれば、祭りの狂騒の中で勢いで決めることもある。法則で決める場合は身体的欠損などで判断されるが、そうそう都合よくいつも欠損者が現れるとは限らない。となると大体は勢いということになる。
 例えば日頃から素行の悪い者だとか、美少女すぎて村の男たちの争いの種になりそうな女だとか、色々理由があっても、基本的には村全体の総合的な貢献度で判断させるのではないかと思う。今まで平等だと思ってた幻想は、その時一気に砕かれることになる。
 人口調節のもう一つの方法は、過酷な成人儀式(イニシエーション)を課すことだ。バンジージャンプなども起源としてはそこにある。つまり運悪くロープが切れたり伸びたりすれば淘汰される。また、過酷な試練は概ね体力や知力に優れた者を残すことになる。
 戦争というのもシンプルな方法で、淘汰されるべき人間を自分の村から選ばずに、隣の村から選ぶという方法だ。ただ、当然ながら報復に会うから、結果的には自分の村の戦闘能力の低い者が淘汰されることになる。
 表向きは平等社会でも、常に村の中でそれぞれの隠しパラメータが推定され、人口調節の時にそれが露呈してゆくことになる。
 ただ、この時点ではまだこの個々のパラメータが交換価値を生むことはない。

0 件のコメント:

コメントを投稿