人間も他の生き物もすべて、長い進化の過程で偶発的に次々と新しいものが付け加えられ、いわば増築を繰り返した建物のようなものだ。人類もその意味では「残念な生き物」の一つなのかもしれない。
だから、言ってることややってることが矛盾するのは普通のことだ。それが人間らしさでもある。
思想というのはそれを強引に一つの考え方、一つの行動に押し込め、強要するもので、だから思想を嫌うというのも人間の自然な感情だ。何ら恥ずべきことではない。
そうした理屈にならない声を高らかに歌い上げ、人間らしさを解放する。それがすべての芸能、すべての風流の役割でもある。
許六はもとより、芭蕉も去来も支考も土芳も越人も、別にそんな首尾一貫した思想あったわけではなく、だからこそ彼らは風流の徒だったわけだ。そういうわけで『俳諧問答』の理論の不十分さも、それが俳諧だという所でいいのではないかと思う。
大事なのは過去の理論に忠実であることではなく、そこから各自それぞれ何かを汲み取り、自分自身の中で深めてゆくことだ。職人技の継承というのはそういうものだ。教わるのではない、盗み取るものだ。『俳諧問答』もそのように読まれるべきであろう。
さて、今月もこの辺で『俳諧問答』の方は一休みして、また俳諧を読んで行こうと思う。
今回は、柳も花が咲き美しい緑の糸を垂れるこの季節なので、『続猿蓑』に収録された「八九間」の巻を選んでみた。元禄七年春、江戸での興行。
参考文献は『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)。
この歌仙には、もう一つのバージョンがある。真蹟添削草稿でこれは後で見てゆくことにする。
まず発句だが、
八九間空で雨降る柳かな 芭蕉
これは以前にも書いたように柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではなく、木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でない主観的なものを治定するので「かな」で結ぶことになる。
一間は約1.82メートル。八間は十四メートル半になる。
「八九間」という言葉は陶淵明の「帰田園居」三首の其一に、
方宅十餘畝 草屋八九間
楡柳蔭後簷 桃李羅堂前
とある所から来ているという説もある。ただ、中国には「間」という単位はない。この場合は部屋数を言う。「十餘畝」は岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編、一九八四)の注に「およそ五アール強」とある。
まあ、有名な詩だから芭蕉も当然知っていたとは思うが、語呂がいいから拝借した程度で意味上のつながりはない。そこが「軽み」というものだ。
脇は沾圃が付ける。
八九間空で雨降る柳かな
春のからすの畠ほる声 沾圃
実際には雨が降ってないので、カラスが畠を掘る長閑な田舎の景で応じる。
沾圃はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、
「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。
寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。」
とある。露沾と立圃を合わせたような名前だ。
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
の句を詠み、これをもとに『続猿蓑』が編纂され、沾圃はその撰者に抜擢された。たださすがに選者は荷が重く、実質的には芭蕉が存命中は芭蕉の、没後は支考の協力のもとに行われたようだ。
第三。
春のからすの畠ほる声
初荷とる馬子もこのみの羽織きて 馬莧
「羽織」は礼装だが、ウィキペディアには、
「ちょっとした外出着や社交着として(紋付でない羽織)、着物の上にはおったり、着物とお揃いの羽織(いわゆる「お対」)を着用したりする。」
とあり、紋付でない羽織はそれほど格式があったわけではないようだ。馬子でも着ることがあったか。
ただ、「馬子にも衣装」とはいうものの、何か板につかない感じで、そのおかしさを狙ったか。田舎のカラスもカーと鳴く。
馬莧は『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注に、「鷺流の狂言師、名貞綱、権之丞と称す」とある。
四句目。
初荷とる馬子もこのみの羽織きて
内はどさつく晩のふるまひ 里圃
前句の馬子の羽織を晩に行われる宴会のためとした。馬子のことだから狭い会場に詰め込まれてあまり優雅とは言えない。
『校本芭蕉全集 第五巻』の注には里圃も「能楽関係の人」とある。
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