昨晩は曇っていたが、今朝は晴れて真ん丸の有明が見えた。
それでは「八九間」の巻の続き。
さて、最初に言ったとおり、この歌仙には『真蹟添削草稿』というものが存在する。『校本芭蕉全集 第五巻』(中村俊定校注、一九六八、角川書店)の注にはこうある。
「この芭蕉真蹟『八九間雨柳』歌仙一巻は、もと三重県四日市市鈴木廉平氏の曽祖父、小草亭李東(士朗門)が、文化七年長月庵若翁と井上士朗の斡旋によって、伊賀の俳人士得なる人から譲り受けたものという。
李東はこれを記念して文化八年草稿のまま模刻し板行した。
さらに鈴木芦竹氏は李東の追善のため、大正十三年に藤井紫影博士の序文を得てこれの復刻をしたが、復刻の見にくいのをおそれて玻璃版一枚を掲げた。」
さらに、『続猿蓑五歌仙評釈』(佐藤勝明、小林孔著、二〇一七、ひつじ書房)には、「草稿と版本の中間形態を示す資料(大正十一年五月『子爵渡辺家御蔵品入札』目録所収)を紹介している。
これによって知られるのは、『続猿蓑』がかなり本来の興行のものから手直しされているということで、しかも句の作者の名前まで変わっていて、実質的に芭蕉の作品になっているということだ。
それまでにも『ひさご』の「木のもとに」の巻のように別の連衆によって作り直したことはあったが、句をそのままに作者名が変わるというのはなかった。
同じ『続猿蓑』の、「いさみ立鷹引すゆる嵐かな 里圃」を発句とする歌仙も、『続深川』所収のバージョンだと発句は「いさみたつ鷹引居る霰哉 芭蕉」になっていて、内容もまったく違っている。
これは芭蕉が『続猿蓑』に向けて、より完璧な作品を志したことと、表向きの撰者の沾圃の顔を立てるためだったと思われる。
『続猿蓑』は元禄六年冬の、
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
の発句に始まるもので、この句は巻頭を飾る事はなかったが、翌年芭蕉・支考・惟然の三人で歌仙を完成させている。
「いさみ立」の初案の歌仙もこの頃と思われる。「八九間」の初案はその翌年、元禄七年の春に巻かれている。
芭蕉としてはこの内容に不満だったのだろう。
発句の、
八九間空で雨降柳かな 芭蕉
の句は変わってない。ただ、脇は、
八九間空で雨降柳かな
春のからすの田を□たる声 沾(見)
畠ほる声
作者名は沾とした上でその上に「見」と書かれている。馬莧のことか。
最初は「田を□たる声」だったのを「畠ほる声」に直したというのは分かる。ただ、なぜ沾を見に直したのかはわからない。
この読み取れない□の部分は『続猿蓑五歌仙評釈』では「『わ』で問題なく」としている。「田をわたる声」だったことになる。カラスが鳴きながら飛んでゆく場面から、畑で餌を啄ばみながら鳴く声になる。これは柳の木の下が実際には雨が降ってないということを分かりやすくするための改作であろう。
第三は、
春のからすの畠ほる声
立年の初荷に馬を拵て
初荷とる馬子も仕着せの布小きて 見(沾)
となっている。
「立年の初荷」は意味的に重複している。初荷は正月のものだから「立年」とことわらなくてもいい。
前句を「畠ほる声」に治定したあと、その長閑な雰囲気に初荷の馬を付けたと思われる。
改案では馬子の姿をより詳しくし、「仕着せの布小」を着ているとした。
「仕着せ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「四季施,為着とも書く。江戸時代,幕府が諸役人,例えば同朋,右筆,賄調役,数寄屋坊主などへ時候に応じて衣服を与えたこと,もしくは与えた衣服をいう。一部が代金で与えられる場合もあった。また商家や農家でも奉公人に仕着が与えられた。江戸時代の商家では,丁稚(でつち),小僧は12,13歳で雇い入れられたが,その後約10年間,元服して手代となるまでは給金は与えられず,仕着と食事および若干のこづかいが与えられるだけであった。」
とある。今日で言えば会社から支給される制服のようなものだろう。無理矢理着させられているという意味の「お仕着せ」もここから来たと思われる。
「布小」は「布子」でコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「木綿の綿入れ。古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れをいった。《季 冬》」
とある。防寒服だ。
おそらく「初荷とる馬子も仕着せの布小きて」の方が実際にはありがちだったのだろう。ただ、あまりリアルすぎても花がないので、やや理想を込めて、最終的には「初荷とる馬子もこのみの羽織きて」に直して治定したのだろう。
正月くらい好きな着物を着てみたいし、それを許すような粋な親方がいてほしい、という願望が込められている。あえて「あるある」ではなく提案にした。
四句目。
初荷とる馬子も仕着せの布小きて
庭とりちらす
内はどさつく晩のふるまひ 里
「仕着せの布小」なら防寒着だから、外で震えながら正月のご馳走に預ったのだろう。多分この方がリアルだったに違いない。
ただ、ここでもこの方が粋だという提案を込めて、狭い店の中でご馳走がふるまわれると変えている。
五句目。
内はどさつく晩のふるまひ
宵月の日和定る柿の色
きのふから日和かたまる月のいろ 沾
とりちらかった庭での宴は、天気がよくなって急遽月見の宴が催されたからだとする。庭なので柿の色を添える。
ただ「内はどさつく」だと柿の実も外の月も見えない。そこで「きのふから」とし、日和が定まったのだから外には月が照っていることだろう、とする。
六句目。
きのふから日和かたまる月のいろ
薄の穂からまづ
ぜんまひかれて肌寒うなる 蕉
月に薄は付け合いだが、あまりにベタなので何か外のものはないかと思案して、最終的にゼンマイの紅葉の美しさを見出したと思われる。
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