今日は気温も低く、朝は車の窓ガラスが霜で氷っていた。風も強く、時折雨もぱらついた。都内では既に桜吹雪になっていた。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、下巻ニ
とられずバ名もなかるらん紅葉鮒 ナラ 玄梅
此句、扨々かた腹いたき句也。かやうのてにはを見て、歌よみ、又ハ連歌師など嘲る事也。
『名もなかるらん』と云事、大き成相違也。『名もなかるべし』といふ事をいひあやまりて、『なかるらん』とはねたる也。つたなき作者・撰者の胸中符合せし事、不便の至り也。
我黨ハかやうのてにはを説教てにはといふ也。
『上下万民おしなべてかんぜんもの社なかりけれ』といへるに、少もかハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.122~123)
日本語は今日でも仮定に対しては断定で受ける。「なせばなる」を「なせばなるでしょう」と言ったら何か間延びして変だ。人を脅迫する時にも、「金を持ってこなきゃ人質を殺す。」ならまぎれもなく日本人だが、「金を持ってこなかったならば、人質を殺すでしょう」と言ったら犯人は外国人だ。英語ならwillを使うところなのかもしれないが。
その意味では、この句は確かに、
とられずバ名もなかるべし紅葉鮒
の方が自然だ。「雉も鳴かずばうたれまい」という諺もある。「まい」は「まじ」で、『岩波古語辞典』には「この語は『べし』の否定の『べからず』の意味を持ち」とある。
現代語でも「獲られなかったなら紅葉鮒なんて名前はなかったな」と言うところだろう。ただ、「なかっただろうに」という言い回しは確かにある。
この句に関しては、『去来抄』「同門評」にその反論がある。
「取れずバ名もなかるらん紅葉鮒 玄梅
許六曰、是を説教はねと云。かんぜん者ハなかりけりト也なり。又曰、或人路上にて人に逢て、上へや行ゆくべし、下へや行べしと路ヲ問るが如し。てにをはあハず。
去来曰、上へや行べしと謂ハ、上ハ疑ひ下は決し語路不通。疑ひて決するといふてにはにもあらず。
此句このくハ上に疑ひ有りて下をはねたり。
又らんはらしにかよふ。はねたる事くるしからじ。六曰、穴勝にはねたるをいハず。惣体てにをはあしきトなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.36)
「上へや行ゆくべし、下へや行べし」は普通なら「上へや行かん、下へや行かん」なのだろう。「や‥らん」という係り結びは中世の連歌でも多用されている。もとは「や‥らむ」だったのが、習慣的にはねる(撥音にする)ようになったのだろう。
これに対し、「上下万民おしなべてかんぜんもの社(こそ)なかりけれ」の場合は「感ぜぬ」の「ぬ」が音便化したものだ。「む」も「ぬ」も撥音便になれば「ん」なので、どっちか紛らわしい時がある。
論理的に言えば、事実に反するか未来の事に仮定があった場合、その帰結はまだ実現してないのだから、断定よりも推量の方がいいのだろう。他所の国の言語ではそうなる方が普通なのかもしれない。
これは日本語の癖でもあり、今でも翻訳口調の文章は仮定を推量で受けたりして違和感を覚えることがある。そういうことは昔もあったのだろう。
「一、下巻ニ
蛸壺を駒が林の火桶哉 沼足
これ眼ある人のすべき事ニもあらず。又撰者の入べき句ニもあらず。
忝もさるミのニ、『蛸壺やはかなき夢を夏の月』と師の名句いひをき給へる事、一天下しらぬ人なし。是おのづから制の詞也。
下ハ如何やうにいひかえても、「蛸壺」、此句の眼也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)
「制の詞」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「歌学で、聞きづらいとか、耳馴れないとか、特定の個人が創始した表現であるなどの理由から、和歌を詠むに当たって用いてはならないと禁止したことば。藤原為家の「詠歌一体」で説いているが、同様の考えはそれ以前の歌合判詞や歌論書に見出され、俳諧にもある。禁制の歌詞。禁のことば。制詞。
※正徹物語(1448‐50頃)上「制のこと葉といひて『うつるもくもる』『我のみ知りて』などいひ出したる一句名哥を」」
とある。
ただ、「蛸壺」が制の言葉だというのが果して芭蕉の意図するところだったのかどうかはわからない。許六自身の思い入れによるものではないかと思う。
要は「蛸壺」を用いても芭蕉の句とは違う新味が出せればいいのであって、そうでなければ別に「制の詞」を持ち出さなくても単純に「等類」ということになる。
蛸壺を駒が林の火桶哉 沼足
この句の「駒が林」は今の神戸市長田区にある地名で、蛸壺漁の盛んなこの地では蛸壺を火桶(火鉢)にも使っているという句だから、芭蕉の句とはまったく違う。等類とは言えない。
「玄梅が集ニ、惟然が句、
閑なる秋とや蛸も壺の中
とあり。是猶師の句の下手成物也。
予が撰集の時も、此句書ておくれり。大きにいやしミ、我黨ハ小便壺へかい捨て侍る也。
此外いくらも侍れ共、論ずるにいとまなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123)
岩波文庫の注には玄梅の集は『鳥のみち』とある。
惟然の句は、確かによくわからない。蛸が蛸壺に入ったら捕らえられて食われてしまうわけで、だからこそ芭蕉も「はかなき夢を」と詠んでいるが、ここではそういう悲劇性が感じられない。
おそらく自分を蛸に喩えて、壺(自らの草庵)の中に籠って静かな秋を過ごそうという意味の句だったのだろう。まあ、引き籠ってばかりいると、後が大変ということはあるが。
ただ、これが「小便壺へかい捨て」る程の句かどうか。芭蕉への思い入れが強すぎてこういう発言をするのだろう。
「切字二ツ入ても、習ひに叶へる句もあり。師の句ニも、二ツ入給ふ事稀にてすくなし。今の代の俳諧師、扨々つたなき事也。
埋木といふ物、版木に出てあり。てには・切字の事、くハしく記ス。見せたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.123~124)
芭蕉の句に切れ字の二つ入った句はほとんどないといっていい。
明月や座にうつくしき貌もなし 芭蕉
の句は、死後に発表されているため、元は「明月の」だった可能性もある。
松風や軒をめぐって秋暮ぬ 芭蕉(笈日記)
の句も、死後発表されたもので、
松の風軒をめぐって秋暮ぬ 同(翁草)
松風の軒をめつって秋暮ぬ 同(泊船集)
の切れ字一つバージョンもあるので何ともいえない。
『野ざらし紀行』の、
梅白し昨日や鶴を盗まれし 芭蕉
は「し」が二つと「や」が入っている。これは数少ない例か。同じ頃、
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
という切れ字のない句を詠んでいる。
蘭の香やてふの翅にたき物す 芭蕉
も「や」とあって、「薫物す」と終止言で終っている。
また、許六がてにはや切れ字を論じる際に参考にいていたのが季吟の『俳諧埋木』だということも明かされている。
芭蕉もまた伊賀にいた頃は季吟の門だったから、その辺の根底は同じなのだろう。
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