これまでの所をまとめると、まず古代の八代集に由来する中世和歌・連歌の共通の言葉だった「雅語」を貞門はそのまま継承し、談林の流行期は中世の謡曲の言葉が盛んに使われた。
貞門でも寛文の頃の宗房時代の「野は雪に」の巻では、蝉吟は積極的に謡曲調の句を詠んでいた。
天和の頃には漢文調も試みられたが、その後蕉風確立期には雅語を基調とした、去来のいう「基(もとい)」に戻ってゆく。
ただ、この頃でも芭蕉は盛んに新しい俗語の使用を試み、やがて「軽み」の風に至った時、俳諧独自の言葉がほぼ確立されることになる。
こうした言葉は、俳諧が全国津々浦々に広がり、下層の人々の間にも広がりを見せることで、江戸の新たな共通語を形成したと思われる。
戦前の学説だと、中世までは日本中同一の言語を話していながら、江戸の幕藩体制によって人の移動の自由が制限され、各地の方言が形成されたとされていたが、これはありえない話だ。
むしろ五街道が整備され、多くの商人が日本中を駆け巡り、廻船による物資の流通も盛んになり、武家も参勤交代で定期的に江戸での滞在が義務付けられたことによって、国内での人の移動は飛躍的に増え、江戸・上方の言語は共通語として全国に広まっていったと思われる。
こうした中で、俳諧は俗語を開放し、俳諧の言葉もまた全国の共通語として広まっていったと思われる。
切れ字の「や」は芭蕉の時代までは雅語に基づいた疑問・反語の係助詞として用いられていたが、芭蕉の死後になると口語として使用されていた、今日の関西弁で用いられるような「や」がじわじわと俳諧にも浸入し、やがて詠嘆の「や」として定着していった。
許六の『俳諧問答』はその過渡期に書かれたもので、この新しい「野」の用法は去来周辺から広まったことがうかがわれる。
ひとたび詠嘆の「や」が定着してしまうと、許六の切れ字論の「疑ひのや」がいつのまにか「何を言っているんだ」ということになり、許六があたかも文法に無知だったかのように言われるとしたら残念だ。
言葉は時代によって変わる。むしろ『俳諧問答』は元禄期に起こった言葉の変化を知る上での貴重な資料と言えよう。
それでは『俳諧問答』の続き。
「一、同じ集ニ
稲妻のかきまぜて行くやミ夜哉 先生の句也
やミ夜の事、耳にたち侍る。月夜・月の夜等ハ、いひふるしたる詞也。やミ夜とハ、都鄙きかぬ通俗也。
ケ様の事、本歌ありてハ作者の手柄なし。新ミにいひ出すを手柄なれバ、定て證歌ハあるまじ。
やミと斗ハ、歌にもよみ、通俗の言葉にもいひならハせ共、夜の字入時ハ、てにハなくてハいはず。おぼつかなし。承度事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.127~128)
要するに、「闇夜(やみよ)」という言葉は聞いたことがないというわけだ。
今日では「闇夜の烏」だとか、「闇夜に咲く花」だとかいうが、許六の時代でそれほど用いられない言葉だったか。
ただ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 やみの夜。月の出ていないまっくらな夜。暗夜(あんや)。闇の夜(よ)。
※万葉(8C後)九・一八〇四「闇夜(やみよ)なす 思ひ迷(まと)はひ 射ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて」
とあるから、万葉の時代からあった言葉だったのか。もっとも、万葉は漢字で書かれていて訓のつけ方も時代によって変わる。「ひむがしののにかぎろひのたつみへて」は賀茂真淵以降で、それ以前は「あづまのにけぶりのたてるところみて」だった例もある。
『去来抄』には、
「電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな 去来
丈草・支考共曰、下の五文字過すぎたり。田づらとか何とぞ有たし。去来曰、物を置をくべからず。ただ闇夜也。両子曰、尤(もっともの)句にして拙しと論ズ。其後草に語りて曰、退ておもふに両士は電の句と見らるる也。ただ電後闇夜(でんごあんや)の句也。故に行とハ申侍る。草曰、さバかりハ心つかず。いかが侍らん。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.35~36)
とあり、別に「闇夜」が聞いたことがないなんてことは言っていない。京都と彦根では差があったのか。
ここでの議論は、稲妻は闇夜に光るもので、当たり前のことを言ってるだけではないかというもので、「田づら」とか何か景物が欲しいということだった。
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