2019年4月9日火曜日

 気温のあまり上がらぬ日が続いたので、ソメイヨシノの花も思いのほか長持ちしている。明日も寒くなるらしい。
 おとといの佐原柳を思い出して、

 柳哉面々さばきの民主主義

 あの日は選挙の投票日でもあった。誰か一人が捌くのではなく、みんながそれぞれ捌くことのできる世の中は貴重だ。いつまでも独裁国家に飲み込まれることなく続いて欲しい。
 鈴呂屋は平和に賛成します。それでは俳話の方に。

 切れ字の「や」の古い用法は「疑いのや」とはいっても主観的な内容を「‥‥だろうか」と結ぶようなニュアンスで、はっきりとこれは謎だと言っているわけではない。
 たとえば目の前で花が散っていれば「花ぞ散りける」だが、今日の雨で花は散っちゃったかなという時は「花や散りける今日の雨」になる。
 「疑いのや」と「詠嘆のや」の違いは、「花は散っちゃったかな」というのと「花は散っちゃったなあ」くらいの違いしかない。
 昨日は『芭蕉俳句集』を見てみたが、今日は『捨女句集』(捨女を読む会編、二〇一六、和泉書院)を最初から見て「や」のある句を拾ってみようと思う。

   元日
 万歳のかめにささばや花の春    捨女

 万年生きるといわれる亀に花を生ける甕とを掛けた句で、そこに「花」を生けてみたいなという句。
 「花の春」は正月のことだが、花で切って「花を万歳のかめにささばやの春」とも読める。
 「ささば」は未然形でまだ挿してない。挿してみたらどうだろうかということで「や」が用いられる。

 家々の千とせやあまたかどの松   捨女

 「千とせ」が眼前の事実ではなく「千とせだったらいいな」という気持ちを表わすだけなので、「千とせ」は疑いの「や」になる。
 「かどの松は家々のあまたの千歳や」の倒置。

 とらのとしくるさお姫やおと御ぜん 捨女

 「おと御ぜん」は「乙御前(おとごぜ)」ともいう。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

「おとごぜ【乙御前】
 ①  すえ娘。妹娘。 「主ぬしぞ恋しかりける、-ぞ恋しかりける/狂言・枕物狂」
 ②  顔の醜い女の称。おたふく。おかめ。 「 -をみ付て、きもをつぶして/狂言・賽の目」
 ③  狂言の女面の一種。顔の醜い若い女の面。「釣針」「仏師」「六地蔵」などに用いられる。おかめ。おたふく。おと。」

とある。
 「とらのとしにくるさお姫はおと御ぜんや」の倒置。なぜ「とらのとし」だと「おと御ぜん」になるのかというと、おそらく寛文二年に没した狂言師、大蔵虎明(おおくらとらあきら)からの連想だろう。
 実際には佐保姫がおかめになったりするとは思えないので、あくまで空想ということで「疑いのや」になる。

 東よりこえくる春や二所の関    捨女

 初日は東の方からやってくる。ここでは東は東(あづま)の国の連想で、東(あづま)から春が来るのなら、きっと二所の関(白河の関)を越えてくるのだろうとこれも空想なので「疑いのや」になる。
 「東より二所の関をこえくる春や」の倒置。
 中世以降の白河の関には住吉明神と玉津島明神の二つの神社があり、二所の関と呼ばれていた。
 古代の白河の関については諸説あるが、芭蕉と曾良が訪れた旗宿が有力とされている。

 こぞのしわことしのびてや若ゑびす 捨女

 若恵比寿は紙に刷った恵比寿像で、紙だから古くなればしわもよってくる。ただ、毎年新しい若恵比寿を買うので、新品のうちはしわがない。
 それを「こぞのしわことしのびてや」と推測する。これも空想なので「疑いのや」になる。

 もろこしも和国となるや春のかぜ  捨女

 これも中国が日本になるわけではないので「疑いのや」になる。句の意味は春風に唐土も和(なごやか)な国になるのだろうかで、信長や秀吉のようなことを言うのではない。

 かざりおくたなや釣どのわかゑびす 捨女

 若恵比寿は歳徳棚 (としとくだな) に供える。鯛を釣った恵比寿様の姿をみればその歳徳棚 も釣殿のようだと空想する。ゆえにここも「疑いのや」。

 雑煮にや千代のかずかく花かつを  捨女

 「花かつをは雑煮にも千代のかずかくや」の倒置。これもたくさんの花鰹が揺れているのを見ると千代の数を数えているようだという空想なので「疑いのや」になる。
 「花かつを」は貞徳の『俳諧御傘』に「正花を持也。春にあらず、生類にあらず、うへものに嫌べからず」とある。

 若菜つむも夜明けやうばふ紫野   捨女

 「夜明けやうばふ」は「夜明けをうばふや」の倒置。若菜を積んでいたらいつの間にか夜が明けていたのを「夜明けを奪う」と表現したもの。本当に奪うわけではないので「疑いのや」になる。
 捨女の句は宗房(芭蕉)の句に比べて、明らかな空想の句が多く「や」の用法がわかりやすい。
 許六も最初は季吟に俳諧を学んだので、切れ字の「や」はこういう風に使うというのが身に染み付いていたのだろう。だから去来の周辺で「や」を詠嘆に用いた時、違和感を感じたのは確かなのだろう。

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